神からの祝福:今そして未来 (2025年7月3日投稿分)

聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書316と書かれている。

これは、クリスチャンは罪を赦され、死後に天国に行くことを意味している。そして、死後に何が起こるかを恐れる必要は全くなく、私たちは怒る神ではなく、私たちを愛する天の御父である神と出会うのだ。

しかし、クリスチャンが持てるものはこれがすべてだろうか?いいえ、もっともっと多くのものが与えられている。

イエスは言った。「、、、わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネの福音書1010

詩篇作者は言った。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇231

聖書は、「、、、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き」(テモテへの手紙第一617と、神に希望を置くようにと教えている。

また「、、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙52223とも教えてくれている。

そう、クリスチャンは、信仰によって神の賜物である御子を自分の人生に受け入れ新しく生まれ変わるときに、御霊の実を結び、永遠のいのちが約束されるのだ。

そして私たちは天国への希望と同時に、日々神の愛や慈しみを享受している。信者として、私たちは今この瞬間も、また将来天国においても祝福を受ける。

もしこの確信を持てずにいるのであれば、ぜひ牧師か私に連絡してほしい。

弟子が弟子を生み出す(2025年6月29日投稿分)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネの福音書122425

種は植えられない限り、実を結ぶことはない。植えられることもなく、変化することも許されないのであれば、創造された目的を達成することは永遠にない。

もしクリスチャンが己に死ぬことを望まなければ、ヨハネの福音書15章に書かれているような実を結ぶことは決してない。第15章における信者の実とは新しく生まれた別の信者を意味する。そしてその新しく生まれた信者もまた別の信者という実を結ぶのである。枝(信者)ぶどうの木(イエス)からいのちを得て、その結果、実を結ぶことになる。

イエスは言われた。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネの福音書155(ここで言う実は、ガラテヤ人への手紙52223に書かれている「御霊の実」に加えられる)

もし私たちがヨハネ15章で語られている実(弟子)を生み出さずに、その実が次の実を産み出さないのならば、ガラテヤ5章に書かれている「御霊の実」を生かさずにそこにとどまり続ける信者ということだ。

イエスが弟子たちに語った最後の言葉は、このことを強調していた。イエスは言われた。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書281820

今日の教会は、ガラテヤ5章の御霊の実を生かさずとどまり続ける信者で構成されており、ヨハネ15章の多くの実を結ぶ信者はほとんどいない。

あなたが己を捨て、神があなたをどこに置かれても、弟子であること、そして弟子を育てるというあなたの使命を追い求めるとき、神があなたを祝福してくださいますように。