宗教:人は神を求める (2025年7月8日投稿分)

“人間が神を求めること”というのは、「宗教 」についての良い定義だと思う。多くの点で、これはキリスト教にも当てはまる。

聖書にはこう書かれている:

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」(箴言817

「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ書2913

「それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」(使徒の働き1727

聖書は、人々が偶像から離れ、生ける神を求めるべきだと教えている。人が生ける神を求め、その神に立ち返るとき、神はそこにおられ、その人を迎え入れようと手を差し伸べてくださっていることが分かるだろう。

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書1910

「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ人への手紙44

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書112

人は、心の虚しさを満たすため、苦しみの時に力を得るため、そして絶望的な状況に希望を与えるため、神を求めることがよくある。

生ける神は、イエス・キリストを通して、これらすべてのことを満たし、さらにそれ以上のことを行なってくださる。(1) 心に平安を与え、(2) 力と勇気を与え、(3) 希望のないところに希望を与えてくださる。

神はあなたの天の父となることを望んでおられるが、それはあなたが信仰に立ち返り、祈りによって神をあなたの人生に迎え入れることによってのみ可能となる。

神は約束を守るお方であり、その方が「神を求める者は神を見つけるだろう」と約束されている。

何かお手伝いできることがあれば、連絡してほしい。神様はあなたを心から愛しておられます!

霊的世界と物質的世界(2025年7月6日投稿分)

神の世界に対する計画は、霊的な計画と物質的な計画の二つから成ることが、聖書には明らかにされている。

イエスは、イエスと共にいる12人を選び、神の御業を行うために彼らを訓練された。「そして、(1)神の国の福音を宣べ伝え、(2)病人を治すために、、、彼らを遣わされた。」(ルカの福音書9:2

神の御国を宣べ伝えることは、人間の霊的な必要を満たすことであり、病人を癒すことは、人間の物質的な必要を満たすことである。

わたしたちは皆、霊的な必要も物質的な必要も持っているが、天の御父はその両方を満たしたいと願っておられる。

イエスがこの世に来られ、十字架に架かり、私たちの罪の代価を支払ってくださった時、神は私たちの霊的な必要を満たしてくださった。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書 3:17

イエスはまた、私たちの物質的な必要を満たしたいと願っている。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ人への手紙4:6

まず、イエスを信頼し神に信仰を置き、次に祈りによってあなたの必要を神に伝えてみてほしい。

恵み深き天の父はあなたを愛し、あなたの霊的な必要を満たしたいと願っている。そして、愛に満ちた天の父はあなたの物質的な必要も満たしたいと願っておられるのだ。

あなたが直面している問題は霊的なものだろうか?それとも物質的なものだろうか?それともその両方?

経済的困難、孤独、仕事を必要としている、健康状態がすぐれない、子どもが反抗的、怒り、死への恐怖、あるいは制御できない罪、、、それが何であっても、あなたは神に助けを求めることができる。そして今、神に求めるべきなのだ。

もし助けが必要であれば、是非私かクリスチャンの友人に連絡し相談してください。

あなたは愛されていますか?もちろんです!(2025年7月6日投稿分)

自分はまったく愛されていない、自分には何の価値もないと感じたことはないだろうか?

イエスは、地上のすべての人は神に愛されていて、尊い存在であることを教えられた。

イエスは、100匹の羊を飼っていた羊飼いのもとから、1匹の羊が群れから外れて迷子になったことを話された。羊飼いは99匹の羊を残し、迷子になった1匹の羊を探しに行った。羊飼いはその羊を見つけるまで探し続け、安全な所まで連れ帰った(ルカの福音書15:4-7)。

またイエスは、貴重な銀貨を10枚持っていた女性の話をされた。そのうちの1枚が行方不明になったため、彼女はランタンを灯し、床を掃き、そのコインを見つけるまで注意深く探し続けた。(ルカの福音書15:8-10)。

それからイエスは、二人の息子を持つ男の話をされた。息子の一人が父親のもとへ行き、父の財産の分け前を要求した。父親は全財産の半分を息子に与えた。息子はそのお金を持って別の町へ行き、放蕩三昧の日々を送った。ところが、お金が尽きたころに、その土地に大飢饉が起こり、彼には食べるものが何も残っていなかった。飢えに苦しむ息子は、自分の行いが間違っていたことを告白し、息子としてではなく、雇い人として仕事をさせて欲しいと頼むために父親のもとへ帰った。息子が家に帰る途中、父親は息子の姿を見つけ、息子に駆け寄り、キスをして、雇い人としてではなく、息子として迎え入れた。(ルカによる福音書 15:11-24

聖書は、私たちは皆、神から遠く離れ、失われていると教えている。イエスは、失われた者たちを探し求めてこの世に来られた。そして「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである」(ルカ1910と言われた。

上の三つの物語に共通するのは、持ち主が失った所有物や責任あるもの、つまり羊、銀貨、息子に抱いていた愛である。もしあなたが羊や銀貨のように行方不明になったり、放蕩息子のように生きる道に迷ってしまったとしても、神はあなたを愛し、探し求めておられる。

今日、神は御霊と真理によって神を礼拝する人々を探しておられる。もしあなたが放蕩息子のようであるなら、愛する天の父のもとに戻ることを選ばなければならない。

もしあなたが羊であろうと、銀貨であろうと、神はあなたを探しておられる。神の愛を受け入れ、あなたの人生に神が来てくださるように願うなら、あなたの心と来るべき天国には大きな喜びが訪れることだろう。

あなたは愛されていますか?もちろんです!

すべての信者への神の約束(2025年7月4日投稿分)

「主の翼の下に、あなたはかくまわれるのです。また、主の変わることのない約束が、あなたのよろいとなるのです。」(詩篇914リビングバイブル)

これは、神がご自分の子供たち、つまりイエスに信仰と信頼を置く者たちをどのように気にかけておられるかを示す素晴らしいみことばである。
鳥がその翼と羽で子を守り保護するように、神もまた、神に献身する者に慰めと保護を与えてくださる。

私たちの武具であり、守りである誠実な約束にはどのようなものがあるだろうか?聖書にはたくさんの約束がある。

例えば:

「したがってイエスは、、、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(へブル人への手紙725

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。」(ヨハネの福音書1427

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二517

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一19

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言356

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイの福音書77

これらは、神を呼び求めるすべての人々に神が与えてくださった尊い約束のほんの一部である。

神は、私たちを救うこと、私たちに平安を与えること、私たちに新しいいのちを与えること、私たちを赦し、導きを与えること、そして私たちの祈りを聞いてそれに答えることを約束してくださっている。

もしあなたがこれらすべてを手にしていないとしても、信仰によってイエスを受け入れるならば、今この瞬間に、手にいれることができるかもしれない。

質問があれば、私、あなたの牧師、あるいはクリスチャンの友人に是非連絡をください。

神からの祝福:今そして未来 (2025年7月3日投稿分)

聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書316と書かれている。

これは、クリスチャンは罪を赦され、死後に天国に行くことを意味している。そして、死後に何が起こるかを恐れる必要は全くなく、私たちは怒る神ではなく、私たちを愛する天の御父である神と出会うのだ。

しかし、クリスチャンが持てるものはこれがすべてだろうか?いいえ、もっともっと多くのものが与えられている。

イエスは言った。「、、、わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネの福音書1010

詩篇作者は言った。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇231

聖書は、「、、、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き」(テモテへの手紙第一617と、神に希望を置くようにと教えている。

また「、、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙52223とも教えてくれている。

そう、クリスチャンは、信仰によって神の賜物である御子を自分の人生に受け入れ新しく生まれ変わるときに、御霊の実を結び、永遠のいのちが約束されるのだ。

そして私たちは天国への希望と同時に、日々神の愛や慈しみを享受している。信者として、私たちは今この瞬間も、また将来天国においても祝福を受ける。

もしこの確信を持てずにいるのであれば、ぜひ牧師か私に連絡してほしい。

弟子が弟子を生み出す(2025年6月29日投稿分)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネの福音書122425

種は植えられない限り、実を結ぶことはない。植えられることもなく、変化することも許されないのであれば、創造された目的を達成することは永遠にない。

もしクリスチャンが己に死ぬことを望まなければ、ヨハネの福音書15章に書かれているような実を結ぶことは決してない。第15章における信者の実とは新しく生まれた別の信者を意味する。そしてその新しく生まれた信者もまた別の信者という実を結ぶのである。枝(信者)ぶどうの木(イエス)からいのちを得て、その結果、実を結ぶことになる。

イエスは言われた。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネの福音書155(ここで言う実は、ガラテヤ人への手紙52223に書かれている「御霊の実」に加えられる)

もし私たちがヨハネ15章で語られている実(弟子)を生み出さずに、その実が次の実を産み出さないのならば、ガラテヤ5章に書かれている「御霊の実」を生かさずにそこにとどまり続ける信者ということだ。

イエスが弟子たちに語った最後の言葉は、このことを強調していた。イエスは言われた。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書281820

今日の教会は、ガラテヤ5章の御霊の実を生かさずとどまり続ける信者で構成されており、ヨハネ15章の多くの実を結ぶ信者はほとんどいない。

あなたが己を捨て、神があなたをどこに置かれても、弟子であること、そして弟子を育てるというあなたの使命を追い求めるとき、神があなたを祝福してくださいますように。