神の御心:恵み、あわれみ、平安(2025年8月12日投稿分)

「信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」(テモテへの手紙第一12

この聖句は、神がすべての人に望まれているものを明らかにしている。それは恵み、あわれみ、そして平安である。

恵みとは、「私たちが受けるに値しないもの」を受け取ることである。私たちは罪の赦しと永遠の命を受けるに値しないが、聖書は次のように語っている。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ人への手紙17

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。、、、、」(エペソ人への手紙28

神は私たちが「値しないもの」を与えてくださるお方である。

あわれみとは、「私たちが受けるに値する」ものを受け取ることではない。私たちは死に値する存在なのだから。「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に、、、」(ローマ人への手紙512)「罪の報酬は死です。、、、」(ローマ人への手紙623神のあわれみによってのみ、私たちは永遠の死から逃れることができるのである。

そして、平安とは、イエスキリストへの信仰を通して神からの賜物である恵みとあわれみを受け取ったことの結果である。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ人への手紙51

もしあなたがイエスへの個人的な信仰によって義とされたなら、今日、神の恵みとあわれみと平安に感謝しよう。

もしあなたがイエスを救い主として信じ、心の平安と人生の意味を求めているなら、今日イエスに祈り、神に従って生きる中でこの「神の平安」を受け取ってほしい。

もしあなたがまだイエスを信じる信仰を持たず、そして助けが必要ならば、クリスチャンの友人か私に連絡してほしい。

人生における確かなことと不確かなこと(2025年7月27日投稿分)

聖書は、人生の短さと不確かさについて非常に明確に述べている。

「人、その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。風がそこを過ぎると、それはもはやない。その場所さえも、それを知らない。」(詩篇1031516

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないのだから。」(箴言271

2010年6月14日の朝、私は人生がいかに不確かであるかを学んだ。

月曜日の朝の聖書勉強会の準備を整えながら、生徒たちが到着する前に自分の視線がうまく定まらないことに気が付いた。複視だった。すぐにテキサス州アービング市にあるベイラー医療センターの救急外来へ向かい、その後6日間、脳の血栓による脳卒中の回復のため入院することになった。後遺症は残らず、完全に回復することができた。

一夜にして、私は命と健康がいかに脆いものであるか、そして人間はどれほどそれらのことを当たり前のことと思っているかを知った。

この警鐘とも言えるべきことは、遅かれ早かれ誰にでも訪れるものであり、その日が来た時に私たちはそれに備えていなければならない。しかし、人生における多くの出来事を私たちがコントロールできない以上、すべてを司っておられるお方、すなわち私たちの主権者である神を信頼しなければならない。

その日のために備えるべき神の約束は数多くある。その一つはエレミヤ書29章11節にある。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているー主のことばー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」神は、私たち信者が、状況の良し悪しに関わらず、平和と未来と希望を持つことを望んでおられるのだ。

また「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)ともある。すべてのこととは、良いことも、悪いことも、不確かなものも含めてありとあらゆるものを意味する。

これが私が信じる神であり、私が仕える神である。私の人生に不確かさはなく、あなたがイエスに従う者ならば、あなたの人生にも不確かさがあってはならない。

もしあなたがイエス・キリストの信者ではなく、この確信を持っていないなら、私かクリスチャンの友人や牧師を探して、今日この問題を解決されることをお勧めしたい。

魂を満たす水(2025年7月24日投稿分)

私たちは水なしでは長く生きられない。水は透明で無臭、無味の液体であり、生存に不可欠なものだ。水がなければ、地球上で生命が存在することは不可能だ。

私たちは水に囲まれた世界で生きているが、その約97%は海洋に存在し、それは飲用や農業用水としては利用不可能なほどに塩分濃度が高い。世界の水のうち、飲用や農業用水として利用できる淡水(塩分を含まない水)は、わずか約3%に過ぎない。

人間は食べ物がなくてもおよそ1ヶ月生きることができるが、水なしで生きられるのは約1週間だけである。

しかし、水(H2O)とは関係のない渇きがある。魂の渇きだ。この魂の渇きは、心と精神の平安、恐れからの解放、人生の意味、そして罪の赦しへの切なる願いとして捉えられる。聖書は、世界とそこにあるすべての水を創造した神が、渇いた魂にも水を与えてくださると教えている。

「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。」(イザヤ書551

この水は「霊的に」渇いているすべての人々のためのものであり、無料で提供される。購入することはできず、贈り物としてのみ受け取ることが可能だ。

イエスは「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書41314そして「わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書635と言われた。

幸せになるために必要なものはすべて持っているのに、あなたが幸せではなく、人生に失望しているなら、あなたは霊的に渇いているのかもしれない。神の水の井戸に「来なさい」という招待を受け入れ、渇いた魂を満たすために、イエスを通して神に信頼を置くことをお勧めしたい。

私は毎日朝食前に、そして日中に霊的な渇きを感じた時にはいつでも、この永遠の水の泉に足を運ぶようにしている。あなたもぜひ実践してみてほしい。

もしあなたの秘めた私生活がこの水のない不毛の荒れ地のようであるなら、私に連絡するか、クリスチャンの友人か牧師のところに行って助けを求めてほしい。

「数々の書物」それとも「いのちの書」?

天国において、あなたの名前は「数々の書物」に書かれているのだろうか?それとも「いのちの書」に書かれているのだろうか?あなたの愛する人々の場合はどうだろう?

聖書は、いつの日か神の御座の前で開かれる書物について語っている。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。、、、、、死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録2012)「……彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた」(13節)。すべての人の名前はこの「数々の書物」に記されており、そこには、天国への入場を妨げる罪が記録されている。

「数々の書物」に名前が記された人々は皆、神の前から永遠に失われることになる。

しかし、聖書はもう一つの別の書物についても言及している。

「書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。」(黙示録2012

いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれる。」(黙示録2015

人の名前は、どうすれば「数々の書物」から「いのちの書」へと変更可能となるのだろうか?

人がイエス・キリストを信じる信仰によって、創造主である神を愛し、仕えることを選ぶとき、その人の名前は「数々の書物」から消され、「いのちの書」に記される。それは永久に残り、決して消されることはない。

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙81

私の祈りと心からの願いは、あなたの名前とあなたが愛する人々の名前がすべて「いのちの書」に記されることだ。

もしあなたの名前がどちらの書に記されているかどうかについて質問がある場合は、私か、クリスチャンの友人、または牧師に連絡して助けを求めてほしい。

人は神を知ることができるのか?(2025年7月12日投稿分)

不可知論者とは、定義上、神は未知であり知ることのできない存在であると信じる人々のことである。彼らは悲劇的な間違いを犯している。なぜならば神はご自身を明らかにされ、知ることが可能だからだ。

最初に、神は創造物を通してご自身を明らかにされた。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。話もせず、語りもせず、その声も聞こえない。しかし、その光芒は全地に、そのことばは世界の果てまで届いた。」(詩篇1914

新約聖書には次のように書かれている。「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物をとして知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ人への手紙120

第二に、神はイエスを通してご自身を知ることができるようにされた。聖書はこう述べている。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、、、、」(へブル人への手紙13

イエスは言われた。「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネの福音書149後半部分)

最後に、神を知るためにはイエスを知らなければならない。なぜなら、イエスご自身がこう言われたからである。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(ヨハネの福音書1467

不可知論者は間違っている。神はご自身を明らかにされてこられたし、私たちは信仰によって、神の書である聖書を学ぶことで神を知ることができるのだから。

真理を探し求めるときには、あなたを助けてくれる教会や聖書研究グループを見つけることをお勧めしたい。

悲劇が起こるとき(そしてそれは避けて通れない)(2025年7月12日投稿分)

2001年9月11日、テロリストの一団がアメリカと自由世界全体に壊滅的な打撃を与えた。私が「自由世界全体」と述べたのは、ニューヨーク市のツインタワーの崩壊によって、世界80カ国から来た男女が命を落としたからだ。

聖書にはこう書かれている。「人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊は、だれが担えるだろう。」(箴言1814

テロリストはアメリカ社会を攻撃したが、アメリカの精神を打ち砕くことはできなかった。アメリカと自由世界全体の精神は、9月11日直後の数日間において見事に示されることとなった。

この大惨事の後、世界中の人々と国々は慰めと力を求めて唯一の信頼できる源ー―に頼ったのだった。

主は言われた。「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。」(詩篇911415ここで用いられている行動を表す言葉、「助け出す」「高く上げる」「答える」「誉れを与える」に注目しよう。

しかし、9月11日の攻撃で亡くなったクリスチャンたちはどうなったのだろうか?彼らが神を必要としていた時、神はどこにいたのだろうか?

聖書はこの点についても明確に述べている。神は彼らと共におられたのだ。

聖書には「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり」(イザヤ書432とある。キーワードは「through(過ぎる)」と「with(ともに)」であり、これは、イエスを信じるすべての信者に対する神の約束である。

そしてまた「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記316とある。主はあなたと共におられ、あなたがこれからどんな困難に直面しようとも、そこにいてあなたを待っておられる。

人生で悲劇に直面した時、(そしてそれは避けて通れない)、創造主である神に祈り求めてほしい。神はあなたの声を聞き、必ず応えてくださる。

今日、悲劇に直面できるかどうか自信がなければ、クリスチャンの友人や牧師に相談してほしい。

選ばれた者、聖別された者、任命された者(2025年7月11日投稿分)

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、、、、、」(ヨハネの福音書1516

この節における「任命された」という単語は、定義上、他の箇所では「聖別された」または「定められた」と翻訳されている。アメリカの一部の州では、結婚式などの特定の儀式を行うためには、任命された人の登録が義務付けられている。

ここでの「選ぶ」という言葉は非常に重要である。イエスを信じる者として、あなたは選ばれ、聖別され、3つのことを行うように任命されている。

(1)「あなたがたが行って」ーこれは、宣教地であれ、隣人であれ、聖書に啓示されているように、祈りと聖霊への従順を通して集中的に活動することを意味する。

(2)「実を結び」―この実を結ぶための第一段階は、ガラテヤ人への手紙522節と23にある。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制…すべてのクリスチャンはこの実を結ぶべきである。第二段階は、ヨハネの福音書15にある。ここで言及されている実とは、もう一人のクリスチャンのことであり、すなわち、ぶどうの木は主イエス、枝はクリスチャン、そしてそこになる実がもう一人の(新しい)クリスチャンである。

(3)「その実が残るようになるため」―これが最も重要である。「その実」とは、霊的に成長するまでサポートすべき新しいクリスチャンのことだ。生まれたばかりの赤ん坊が愛情深く思いやりのある両親を必要とするように、イエスを信じた新しいクリスチャンは、より成熟したクリスチャンからの愛情深い世話と助けを必要としている。

あなたには霊的な子どもたちがいるだろうか?そしてあなたが教えられたことを、彼らに教えているだろうか?

もし霊的な子どもたちがいないのならば、ひょっとしたらあなたは、従順にぶどうの木である主イエスの中にとどまっていないのかもしれない。

天の父は、信者であるあなたに、御霊の実を証する「ガラテヤ人への手紙 5章」の子どもたちと、霊的な実を結ぶことによってキリストに留まっていることを証しするもう一人の信者である「ヨハネの福音書 15章」の子どもたちを生み出すよう任命されている。

この目的を達成するためにアドバイスが必要な場合は、牧師またはクリスチャンの友人に相談してほしい。

奥深いメッセージのシンプルさ(2025年7月10日投稿分)

その子はイスラエル南部の小さな村で、ごく普通のユダヤ人家庭に生まれ、イエスと名付けられた。彼は成人し、30歳頃になると神について教え始めた。神にしかできない奇跡を起こし、自分は神のもとから来たのであり、間もなく神のもとに帰ると語った。

彼は逮捕され、裁判にかけられ、ローマの兵士たちによって処刑され、墓に埋葬された。3日後に墓を調べたところ、彼は消えていた。彼が語っていた通りであった。

イエスは神の力と権威によって死からよみがえられ、今も生きておられる。死と復活の後、イエスはご自身の復活の証人として多くの人々の前に現れた。

当時は、新聞も電信もラジオもテレビもなく、世界的な通信網もインターネットも存在していなかった。

それでもイエスは弟子たちに次のように言われた。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書281920

これは不可能な任務だろうか?確かにそう思える。しかし今日、イエス・キリストのメッセージを信じる人々は世界中の国々に見出すことができる。

そして、イエスに関する次のメッセージは、シンプルだが深い意味を持っている。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙58

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ人への手紙10910

このメッセージは子どもでも理解できるほどシンプルでありながら、信仰によって受け止めなければならないというとても深い意味を持っている。さらに詳しい情報を希望される場合は、私か牧師、またはクリスチャンの友人に連絡してほしい。

クリスチャンは苦しみに遭うか?答えはイエスです。(2025年7月9日投稿分)

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ書432

ここでの神の約束は非常に明確である。神は決して子らを離れず、見捨てない、ということだ。

水、川、火は、聖書においては途方もない苦しみを象徴するときによく使われる。

クリスチャンもノンクリスチャンと同様に苦しみに遭う。しかし、クリスチャンには「わたしはあなたとともにいる。苦難はあなた方を押し流さず。あなた方は燃えつかない」という神からの約束がある。

ここでの神の約束は、苦しみ「からの」解放ではなく、苦しみ「の中で」慰めを与え、共にいてくださるということだ。

すべての人はこの世にあって苦しみを受けるが、しかし、クリスチャンは苦しみの中にあっても、約束してくださった神の臨在を得ることができる。

神は言われた。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル人への手紙135

人生における水や川や火がやってくるとき(実際それらは必ずやってくるのだが)、あなたに慰めと勇気を与えてくださるという神の約束に依り頼んでみよう。

もしあなたがイエスを通して神に信仰と信頼を置いたことがないのならば、今日そうしてみよう。そして何世紀も前に預言者イザヤを通してなされた神の約束を手に入れてほしい。

クリスチャンは苦しみに遭うか?答えはイエスです!

もし質問があれば、クリスチャンの友人や牧師に相談するか、または私に返信してほしい。

宗教:人は神を求める (2025年7月8日投稿分)

“人間が神を求めること”というのは、「宗教 」についての良い定義だと思う。多くの点で、これはキリスト教にも当てはまる。

聖書にはこう書かれている:

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」(箴言817

「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ書2913

「それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」(使徒の働き1727

聖書は、人々が偶像から離れ、生ける神を求めるべきだと教えている。人が生ける神を求め、その神に立ち返るとき、神はそこにおられ、その人を迎え入れようと手を差し伸べてくださっていることが分かるだろう。

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書1910

「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ人への手紙44

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書112

人は、心の虚しさを満たすため、苦しみの時に力を得るため、そして絶望的な状況に希望を与えるため、神を求めることがよくある。

生ける神は、イエス・キリストを通して、これらすべてのことを満たし、さらにそれ以上のことを行なってくださる。(1) 心に平安を与え、(2) 力と勇気を与え、(3) 希望のないところに希望を与えてくださる。

神はあなたの天の父となることを望んでおられるが、それはあなたが信仰に立ち返り、祈りによって神をあなたの人生に迎え入れることによってのみ可能となる。

神は約束を守るお方であり、その方が「神を求める者は神を見つけるだろう」と約束されている。

何かお手伝いできることがあれば、連絡してほしい。神様はあなたを心から愛しておられます!