諦めるのはいつだって早すぎる (2025年1月6日投稿)

フローレンス・チャドウィックは、英仏海峡両方向を泳いで横断した最初の女性である。1952年に、彼女は再び海峡横断に挑戦した。彼女の横には、ボートに乗った彼女の母親がいた。水中で15時間泳ぎ続け、彼女は肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。ボートは濃霧の中にあった。彼女は、母親にこれ以上続けることはできないと言い、海から上がろうとした。母親は水中にとどまって続けるよう励ましたが、彼女は疲れ果てており、続けることを拒んだ。

彼女が海からあがりボートに乗り込んだ直後から、霧は消え始め、数分後には完全に晴れあがり、はっきりと見えるようになった。そして、あきれたことには1マイルも離れていないところに海岸線が見えたのだった。水から上がっていなければ、レースを完走できたかもしれないことを、彼女は即座に理解した。しかし、ボートに乗った時点でレースはすでに終わってしまっていた。

フローレンス・チャドウィックは以前にもこのように途中でやる気を失ってしまうことがあったが、これまですべてのレースを完走していた。彼女は偉大なチャンピオンであり、偉大なスイマーであり、偉大な人間だった。しかし今回は失敗してしまい、もうどうすることもできなかった。諦めるという決断をしたならば、その結果を元通りにする方法はないのである。

この素晴らしい女性の記録を読みながら、私はすぐに学ぶべき教訓を悟った: 「諦めるのはいつだって早すぎる!」ということを。

世俗の世界と同様に、クリスチャン生活においても、絶望的な状況に陥った時にはやめるか突き進むかのどちらかだ。しかし、このジレンマを解決するための第三の選択肢がある。信じられないかもしれないが、それはアメリカ海兵隊からのものだ。どの公式マニュアルにも載っていないものだが、現場ではよく実践されている。それは「再編成と戦略のため後方へ向けて行う秩序ある前進」と呼ばれるものだ。

フローレンス・チャドウィックは肉体的に追い込まれたが、クリスチャンであるあなたもいつの日か経済的に追い込まれるような状況に陥るかもしれない。これ以上続けることができずに、肉体的、精神的、経済的に疲れ果て、トンネルの先に光が見えず、ただ消えてしまいたいという誘惑に駆られてしまうかもしれない。実際のところ、その思いを行動に移してしまう人たちもいるのだ。数年前、私の親しい友人がまさにそうだった。彼は忽然と姿を消し、それっきり消息不明になってしまった。

この誘惑に負けずに、心を強く持とう。あなたは一人ではないのだから。これは、人生においてあまりにも普通のことなのだから。祈りの中で神を見上げて、次の聖句を唱えて、逃れる道を見出そう。

これは私のお気に入りの聖句である。

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント人への手紙第一1013

逃れる方法は、経済的、肉体的、精神的なカウンセリングや、牧師との面談など、様々な可能性がある。信じてほしい。解決の方法はある。主はあなたがその方法を見つけてほしいと願っておられるのだ。

そして次の二つの聖句も心に留めておこう。

「わたしは、あなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたに目を留め、助言を与えよう。」(詩篇328

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言356

しかしそれでも、このジレンマを自分自身で解決することを選んだのであれば、まずは鉛筆と紙を持って座り、問題となっていることを良く考えてすべて書き出そう。

二つ目に、返済できるもの、手放せるもの等に基づいて決断しよう。

そして最後に、最も重要なステップは「とにかくやる!」ことだ。リストを作り、ただ実行する!そうすれば、あなたはきっと満足して笑顔になるだろう。

覚えておこう。「諦めるのはいつだって早すぎる!」ということを。

幸せな新年(Happy New Year)それとも祝福された新年(Blessed New Year)?(2025年1月1日投稿)

これから数週間は人々の間で「HAPPY NEW YEAR!(明けましておめでとう)」という挨拶が交わされることになる。

私からあなたへ一つ質問がある。あなたは幸せな新年(Happy New Year)を迎えるつもりだろうか、それとも祝福された新年(Blessed New Year)を迎えるつもりだろうか?

旧約聖書の預言者ハバククは、ハバクク書3:1718でこの問題を扱っている。

「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。」

ここで疑問が湧いてくるのが、この預言者は私たちもこの新しい年の中で直面するかもしれない人生における様々な困難に、どうやって対処したのかということだ。

彼はそれらの困難を、正しい場所に置いたのである。すなわち、彼が愛し、彼を愛した神を拠りどころとしたということだ。

このコインの裏側には、人生における困難や悲劇に近い出来事に対して、あなたはどう対処するかという問いかけが存在する。困難や悲劇はあなたが最後の息を引き取る瞬間まで、何らかの形でそこに存在し、あるいは存在し続けるものである。

答えは明らかだ。私たちが謳歌している良いことはすべて一過性のものであり、明日にはすべてなくなってしまうかもしれない。もしあなたが預言者に同意できずに、何かを失った時でさえ主にあって喜び、救いの神を喜ぶことができないのならば、あなたは本当の問題を抱えていることになる。なぜなら、彼が直面したのと同じ問題が、ひょっとしたらあなたのすぐ近くで待ち受けているかもしれないからだ。ハバククと同じようにあなたもそれらの問題に立ち向かい、神への信頼を新たにしようではないか。

持っている、持っていないに関係なく、すべての物は正しい場所へ、神を正しい場所に置くということを神は願われているのである。

あなたは幸せな新年を、または祝福された新年を迎えることができる。神を正しい場所に置くかどうかはあなた次第だ。もしそうでないならば、今日実行しよう。絶対に後悔することはない。

預言者ハバククは試練にあったが勝利を手にすることができた。あなたもそうなりますように。

あなたが主に祝福され、かつ幸せな新年を迎えることができますように!

新しい年: 1月は振り返りと軌道修正の時 (2024年12月28日投稿)

一年の最初の月である1月(January)は、ローマ神話に出て来る神ヤヌス(Janus)にちなんで名づけられた。ヤヌスは扉と門の神で、通常は2つの顔を持ち、1つは前を向き、もう1つは後ろを向いている

聖書は、過去から学びつつも、未来に向かって生きるべきだと教えている。

1月は振り返りの時であり、前年の評価をする時である。

例えば:

あなたはこの12カ月を賢く使い、失敗を乗り越えて、成功へと前進できたか?

他者に手を差し伸べ、愛し、恵まれない人々へ必要となるものを分かち合えたか?

自分を怒らせた人を赦したり、自分が他の人に赦しを求めることがあったか?

神を求め祈ったか?享受した恩恵に感謝したか?

私たちは過去を変えることはできないが、そこから学ぶためにあらゆる努力をすべきである。

1月はまた、前を向いて目標を立てる時でもある。

例えば:

どうすれば両親を敬うことができるか?どうすれば家族に愛を示せるか?

自分の家をもっと魅力的にするにはどうしたらいいのだろう?どうすれば隣人に手を差し伸べ、愛することができるだろうか?

どうすればもっと忠実に神を追い求めることができるか?どうしたら自分の教会にもっと関わることができるか?

もし誰かが私を怒らせたとして、その人を赦すことができるだろうか?先延ばしにしてきたことを、今年こそ決断できるだろうか?

これまでのところ順調であったとしても、この一年をさらに良い年にすることを私はお勧めしたい。過去を振り返って評価するにしても、未来に向けて計画を立てるにしても、主イエスの言葉を思い出してほしい。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイの福音書633

神を求めよう。神は必ずあなたを見つけ出し、そして祝福してくださる。

義と不義 (2024年12月27日投稿)

聖書の中で、角は楽器として、また注意を引く道具として使われている。動物界では、角は武器として使われており、力、強さの象徴である。詩篇75篇では、著者は2つの目的を持つ2つの角について語っている。不義の角と義の角である。

不義の角は、愚か者、愚かさ、悪者どもの象徴として描かれている(詩篇75:4)。またうなじを堅くする傲慢さや横柄さ、また「私のやり方が気に入らないなら結構だ」という態度を示している。

ここで描かれている不義の角は、個人が持つ特性や能力は個人的努力による結果ではなく、むしろ賜物の行使や創造主である神によって与えられた能力であることに全く気付いていない。現代に生きるほとんどの人は、この最も基本的な真理に気付いていない。彼らは聖書にある言葉「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くし、ある者を高く上げられる。」(詩篇7567さえも拒絶する。

不義の角は、自分勝手で利己的と表現するのがぴったりだ。しかし、義の角は、サムエル記上222-3でダビデが大変うまく表現している。

「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。」

この原則は箴言25:67にもはっきりと書かれている。

「王の前で横柄にふるまってはならない。身分の高い人のいる所に立ってはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、『ここに上って来なさい』と言われるほうがよいからだ。あなたがその目でみたことを」

ここで語られている原則はシンプルだ。自分の角を吹き鳴らすなということである。もし吹き鳴らすことが必要でかつ適切だと思うのであれば、他の人に任せればいい。あなたはひたすら働き、信頼し、奉仕し続けること。結果がどうなろうと気にしないことだ。

質問:高く上げることが南からも、東からも、西からも来ないのならば、それはいったいどこから来るか?

なんという慰め!それとも、、?(2024年12月27日投稿)

私は歌う。幸せだから。

私は歌う。自由だから。

主の目は雀の上にも注がれているのだから、

主は私のことも見守ってくださるのだ。

これは1934年に作られた歌の一節で、私たちに対する神の素晴らしい愛についての真理を語っている。一羽のスズメが地面に落ちたことにさえ気づいてくださるほどに、神の愛は慈悲深いものである。それゆえ、神はあなたのことも私のことも見ておられるのである。これは慰めだ。主は、私たちが傷ついているとき、悲しんでいるとき、誰にも気付かれないニーズを抱えているときを知っておられる。一言で言ってしまえば、天の父は私たちのことをすべてご存知であるということだ。素晴らしい真理ではないか!

そう、それは素晴らしい真理だが、そのコインの裏を返せばいささか気が重くなる。主は私たちを見ているし、他の人たちが何も知らないようなことも知っている。明るみにでれば、天の父の子として非常に恥ずかしいと思うことまでもすべてご存知ということだ。はっきり言っておくが、私がここで話しているのは、告白して赦された多くの罪のことではなく、人生におけるグレーゾーン(自分の心の中ではそうではないと分かっているのだが)であり、神と人の前で本来解決されるべきことである。聖書はこのことについてはっきりと語っている。「こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」(ヤコブの手紙417

あなたが長年抱え込んでいるグレーゾーンは何だろうか?それに向き合う決心をして、神の御力を信頼すれば、神は喜んであなたを助けてくださる。

あなたが天の父に何かを告白する時、神はすでにその問題についてご存知であること、そしてあなたがそのことを、祈りを通して語ってくれることを信じて疑わずにずっと待ち望んでおられることを忘れないでいてほしい。

行動力のある弟子となるためにすべきことのTo doリストを作り、それを実行しながらチェックしていくことをお勧めしたい。

そう、確信に満ちた従順さでイエスとともに歩むとき、私たちはイエスにあって幸せであり自由なのだ。

主に従うあなたに祝福がありますように。

心配事への解決策(2024年12月27日投稿)

定義によれば、懸念/気にかける(concern)と心配(worry)にはわずかな違いがある。

ひとたびconcernが手に負えなくなれば、それはworryとなる。両者には天と地ほどの差がある。

定義上、懸念/気にかける(concern)とは、問題を発見して当事者に答えを探させることから、ある意味有用なものである。その一方で、心配(worry)は問題の存在に気付きながら解決策を見出すことができない。クリスチャンであろうとなかろうと、すべての人はこの二つを見分けなければならない。そしてもし心配がその人を支配しているのならば、その人は問題を抱えていることになる。

詩篇37篇の作者は、どうやって心配に対処すべきか教えてくれている。37篇で心配を意味する単語は「fret」であり(詩篇37:1,7,8)、これは不満を持つ、腐食を引き起こす、何かをかじる、という意味である。(*注日本語聖書では、口語訳=心を悩ます/新改訳2017=腹を立てる)

作者は言う。この世には(1)してはならないことがあり、(2)しなければならないことがあると。

第一に、私たちは悪いことをする人に懸念を抱いたり、心配したりしてはいけない。そして、彼らが成功し、繁栄しているとき、私たちは彼らを妬んではいけない。それは神の仕事であり、私たちの仕事ではない。神はご自分のやるべきことをしっかりとやってくださる。「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」口語訳聖書(詩篇3712

第二に、想定外の問題に直面したとき、主に信頼することである。「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」口語訳聖書(詩篇3734

クリスチャンは、人生におけるネガティブな出来事についても常に気にかけるべきではあるが、それらについて心配するのであれば、それはすなわち祈りが十分に捧げられていないことを示している。

新年がやってくる。あなたは準備ができていますか?(2024年12月25日投稿)

新しい1年がやってくる。成功と繁栄―そして失敗や苦しみーという新たな一年だ。

新しい年を迎えるにあたって、私たちは成功も失敗も、繁栄も苦しみもあることを理解しなければならない。

成功や繁栄は、時として失敗や苦しみと同じように人を打ちのめすことがある。お金や名声や成功は、永続的な幸福をもたらすものではない。これらは一瞬にして消えてしまうかもしれない。

では、良いことも悪いことも経験することになるとわかっている私たちは、新しい年をどのように迎えるべきだろうか?

まず、神があなたの人生と計画の中で重要な位置を占めていることを確信することだ。

が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)

神があなたの人生に介入し働いてくださるのは、祈りによってあなたの許可を得た時だけであることを覚えておこう。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って、、、、、」(ヨハネの黙示録320

第二に、これを実行したならば、神の子としてあなたに対する神の計らいを信頼することである。次の節での「すべてのこと」とは、すなわち、良いことも悪いことも、楽しいこともそうでないことも意味している。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙828

最後に、良いことであれ悪いことであれ、過去に捕らわれることなく、あなたの未来のために神を信じることだ。

「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ人への手紙31314

過去に経験した成功や繁栄が何であれ、神に感謝すること、そしてそれに捕らわれずにただ前進すること。そして過去にどんな失敗や苦しみを経験していたとしても、そこから学び、手放し、前進することだ。

神があなたを愛し、あなたの人生に素晴らしい計画を持っておられることを忘れてはならない。ただし、それはあなたの許可があった場合に限られる。

今頭を垂れてこういうべきだ。「主よ、私の人生をより良いものに変えてくださることを許可します。そうしてくださることに感謝します。」

そしてあなたの人生に良いことが起こっても、決して驚かないこと。神に感謝して、この祝福をまわりにいる人々にも分かちあおう。そうすれば彼らも祝福される。とにかく続けていこう。

クリスチャン生活に必要不可欠なこと:証しすること(2024年12月25日投稿)

すべての信者に対する神の御心は、マタイによる福音書28章18節から20節に、イエスによって明確に述べられている。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』」(マタイの福音書281820

まず18節でイエスが宣言したことに注目しよう。イエスには、天においても地においても力が与えられており、父から与えられたこの権威によって、以下のことを弟子たちを指導する資格が与えられている。

弟子たちは教えに出て行き、あらゆる国の人々にバプテスマを授け(19節)、イエスが彼らに教えたことを教える。そして人々が従順に従ってイエスが求めたことを実行する時、イエスは彼らと共にいてくださるという約束に注目しよう。

マルコによる福音書161520にもまた、イエスが他の人々に伝えるよう指示していたことが書かれている。「、、、全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。、、、、」

使徒の働きの著者も、クリスチャン生活におけるこの本質的な真理を記録している。信者は皆、良い知らせを他の人々に伝える責任がある(使徒の働き1611)。

この真理を最後に示すのが、マルコによる福音書519である。この箇所で、イエスは悪霊に憑りつかれた男を癒した。彼はイエスと一緒に行きたいと願い出たのだが、イエスは「いいえ、家に帰り、神があなたにしてくださったことを他の人に話しなさい」と言われた。これこそが、神が私たちに望まれていることだ。あなたがすでに実行しているのであれば、その良い仕事を続けよう。神はあなたの従順さを祝福してくださるだろう。

イエスを信じる者は皆、種を蒔く人か刈り取る人のどちらかになるべきだ。あなたはどちらだろう?私の願いは、あなたがその両方になることだ。

なぜクリスチャンは喜ぶべきなのか?

あなたはクリスチャンであるけれど、仕事もなく、支払い期限が過ぎた請求書や、乗り越えられないと思われる家族問題を抱えているかもしれない。

これらは誰もが直面する現実の問題であるが、いつかは解決しなければならない。このような現実的な問題の渦中にあって、あなたには試練や問題に耐えうる礎があることを思い出してほしい。これらの問題はあなたにだけ起こる問題ではないことを理解した上で、あなたには今日も喜ぶべき理由があることをお伝えしたい。

聖書は「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ人への手紙4:4)と言っている。

苦しみの中にいる時に、なぜ私たちは主にあって喜ばなければならないのであろうか?答えを得るに値する質問だ。困難の中にあっても喜ぶべき理由を3つ挙げよう。

第一に、私たちがこの世で信者としてどんな苦しみに遭おうとも、それはいつか天の父にお会いするときに、天の父が私たちに与えてくださる報いとは比べものにならないことを知っているからである。聖書は、一時の軽い苦難に続く、永遠の栄光の重さについて教えている(コリント人への手紙第二41617)。

聖書はまた次のように書いている。「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への手紙第一518)このみことばでは、すべてのことに対して(for)感謝するのではなく、すべてのことにおいて(in)感謝する、と書かれていることに注目してほしい。この二つの言葉には、天と地ほどの違いがある。

主において喜ぶ第二の理由は、主が他のどんな平安ともまったく異なる心の平安を与えてくださるからだ。イエスは言われた:「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネの福音書1427

この世が与える平和には、経済的な安定、健康、仕事上の成功、地域社会での地位など、さまざまなものがある。これらはすべて一時的なものであり、明日には消えてしまうかもしれない。真の永続的な平和は、世が与えてくれるのではなく、主が私たちに与えてくださるのである。

最後に、私たちは主にあって喜ばなければならない。父が子を思うように、主は私たちを心配してくださると約束されているからだ。

「父がその子をあわれむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇10313

イエスは地上を去って天に帰る前に、弟子たちに言われた: 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。」(ヨハネの福音書1418

そしてまた、このようにも約束されている。: 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。{ヘブル人への手紙13:5}

あなたのニーズが何であれ、私は主を求めることをお勧めしたい。主があなたにとって個人的な友であり救い主であると知っているのであれば、今日主にあって喜ぼう!

あなたはシャック(shuck=皮、殻)をつけていますか?

まず、「SHUCK 」の定義をしよう。

シャックとは、野菜や果物の使い物にならずにむいて捨てる部分のことである。ジャガイモの皮をむくとき、英語では “You are peeling off the shuck.” という。

食料品店の野菜売り場に行くと、2種類の軸のついたトウモロコシがある。完全に皮におおわれているもの(shuck)と、皮が半分ついているもの(half shuck)だ。

前者は完全に皮がついている状態のトウモロコシで、大雑把に山積みに並べられている。後者は、半分皮がむかれて中身が見えるようになったトウモロコシで、綺麗なプラスチックのパックに入っている。

そしてもちろんのことだが、あなたが商品を購入したら、家に持ち帰り、家で残りの皮(shuck)を取り除くことで、トウモロコシは皮なしとなる。

私は「シャック」という言葉とその意味を考えていた時に、これは神が私たちをどう見ているかということではないかと思った。皮がついている状態(shuck)、半分皮がついている状態(half shuck)、まったく皮がない状態(no shuck)、これらはすなわち、神から見た未信者、不従順な信者、そして従順な信者ということなのではないかと。

皮(shuck)ですべて覆われている状態は、一度もイエスを救い主として信じたことがない人を意味する。半分覆われている状態(half shuck)は、イエスのことを知ってはいるが未だに人生における罪について告白していない人、そして完全に皮が取り除かれている状態(no shuck)は、自分の罪を認識していて、それに向き合うことを選んだ人のことである。ここで最も重要なみことばはヨハネの手紙第一19である。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

もし神があなたを見た時に皮しか見えなければ、あなたは神の臨在の中で生きる資格はない。

もし半分だけ皮が取り除かれているあなたを見たら、そこにはあなたが向き合わなければならない罪や不従順があるということだ。それらを告白すれば赦される。

もし神が、皮が完全に取り除かれているあなたを見たならば(それは神の子の義を受けとる信仰によってのみ可能)、あなたはいつの日か報いを受け、主の臨在に温かく迎え入れられるだろう。ローマ人への手紙第7章には、私たちはみな程度の差こそあれなんらかの皮や殻を持っているが、いつの日かすべてが取り除かれることが書かれている。

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙81

私から読者への質問はシンプルだ。

神があなたを見た時に、あなたは完全に皮がついた状態(shuck)だろうか?それとも半分だけ皮がついた状態(half shuck)?それとも完全に皮が取り除かれた状態(no shuck)だろうか?

今日あなたが自分の人生を見る時に、あなたが完全に皮で覆われてしまっている(shuck)のであれば、今日あなたの個人的な救い主としてイエスを信頼し、そして半分皮が取り除かれた状態になろう。

そして残っている皮(罪)を告白し続け、神があなたに生きてほしいと願ってる人生を生きる、と決意することだ。

決断するのはあなただ。決心したならば決して後悔することはないだろう。