人間の3つの側面(2025年5月3日投稿)

すべての人には三つの側面がある。(1) 他人から見たあなた、(2)自分から見たあなた、そして(3) 神から見たあなただ。この三つの側面を理解することは、イエス・キリストの弟子として成長し、成功するために不可欠なことである。

周りの人はあなたをどう見ているだろうか?あなたは魅力的で、身だしなみもきちんとしていて、感じがよく、献身的な信者で、一緒にいて楽しい人であって、ガラテヤ人への手紙52223にある「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」という実を体現している人だと見ている。あなたはそれに対して肯定的で、周りの人からどう見られているかに満足している。

では、あなたは自分自身をどう見ているだろうか?他人を愛せないことが多く、喜びの少ない幸福感を持ち、心の平安を見つけるのに苦労し、特定の人々に対する忍耐を欠き、多くの分野で自制心を欠いている。挙げればきりがないが、私の言いたいことはお分かりいただけるだろう。

この矛盾を使徒パウロはローマ人への手紙7:15,18で表現している

「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。、、、、私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。」

最後に、神はあなたをどう見ておられるだろうか? 神はあなたを、深く愛する者として見ておられる。その愛ゆえに、この世に人として生まれ、人として生き、人として死ぬために来てくださった。 そしてご自身の血潮によって、あなたの永遠の命の代価を支払ってくださった。あなたは今、主のものであり、この真理は聖書全体を通して示されていて、コリント人への手紙第一13031に要約されている。「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

あなたへのアドバイスは次の通りだ。(1) 他人があなたをどう見ているかを素直に受け入れること。(2) 過去の自分と決別し、自分自身を正すこと。(3) イエスに力づけられながら忠実に生きること。そして覚えておいてほしい。私たちはみな同じ状況にいるのだということを。

支えてくれる錨(2025年4月24日投稿)

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、、、」(へブル人への手紙619

定義上、錨(いかり)とは、湖、川、あるいは海で、どんな大きさの船でも、岩にぶつかったりその他のトラブルに巻き込まれることがないようにしっかりと繋ぎ止めておくものである。今日は、魂の錨について考えてみたい。聖書における魂とは、真のあなたのことだ。では、あなたの魂または人生にとっての錨とは何だろうか?日々の生活のプレッシャーの中で、あなたの人生に安定や平安をもたらしてくれるものは何であろうか?

多くの人にとって、それはお金である。お金を稼ぐために1日12時間から14時間、あるいは20時間働く。銀行口座の残高が増えれば増えるほど、安心感が増すのだ。

不動産に錨を見出す人たちもいる。平均的には、人は総収入の30%を不動産の購入と維持に費やしている。さらに8~10%を交通費に、さらに10%を健康維持に使う。

おそらく最も一般的な錨は、退職後の資金だろう。老後資金のためには、総収入の70~80%に相当する資金の計画を立て、備えるべきだ。しかし、資金を適切に管理し、保護しなければ、すべてを失う可能性もある。

問題は、あなたが何を持っているか、どれだけ持っているかではなく、何を持っていないかである。すべての人は神を愛し、神にのみ仕えるために創造された。聖書には「あなたがたは神と富とに使えることはできません。」(マタイの福音書6:24とはっきり書かれている。

もしあなたが上記のものをすべて持っているなら、それはあなたにとって幸せなことだ。しかし、これらすべてを手にしてもなお、心に平安がないのであれば、神はあなたを助けたいと願っておられる。私には裕福な友人もいれば貧しい友人もいるが、皆お金では買えない平安を持っている。天の父は、収入に関係なく、あなたにもこの平安を持ってほしいと望んでおられるのだ。

神お一人だけが、あなたに錨と平安を与えてくださることができる。もし、あなたがすべてを手にしているにもかかわらず、心に平安がないのであれば、牧師や親しいクリスチャンの友人のところに行って、思いを分かち合うことをお勧めしたい。

さらに理解を深めるために、ルカによる福音書122234も読むことをお勧めする。

あなたの日もきっと来る(205年4月16日投稿)

「天が主への賛美で満たされていた日、罪によって限りなく真っ暗闇だった日、イエスは処女から生まれ、人々の間で生き、私の救い主となられた。主は生きながらにして私を愛し、死によって私を救い、埋葬によって私の罪を遠くへ運び去ってくださった。復活の際には、永遠に【     】を義とされた。主は必ず来られる。ああ、栄光に満ちた日よ。」(讃美歌 One day when heaven was filled with His praisesから抜粋)

あなたが過去の人生に満足していて、今生きている人生にも満足していて、死んだら何が起こるかについて疑問を抱いていないのであれば、これ以上読む必要はないだろう。

しかし、もし過去の出来事があなたを苦しめ、今現在も人生で問題を抱え、そして将来死ぬことを考えて心が痛んでいるなら、上記の讃美歌の歌詞をよく読んで、空欄に注目してほしい。そして、聖書のヘブル人への手紙927節と28を読んでもらいたい。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」

そしてローマ人への手紙 10:9,10 に耳を傾けるならば、あなたは熱心に彼を待つことができるだろう。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

信じて告白したら、讃美歌の空欄にあなたの名前を入れてほしい。それから、牧師や親しいクリスチャンの友人のもとへ行き、そのことを分かち合おう。あなたが日々信仰によって主と共に歩むとき、主はあなたを必ず祝福してくださるだろう。

ナポレオンは正しかった(2025年4月2日投稿)

ナポレオン・ボナパルトは1804年にフランス皇帝に即位し、西ヨーロッパと中央ヨーロッパの大部分を覆い尽くす帝国を築き上げた。彼の軍隊は次々と敵を倒し、無敵だった。

この戦争の天才は聖書について何を語ったか?彼は言った。「それはただの書物ではなく、生命ある被造物であり,それに敵対するすべてのものを征服する力を持っている。」

聖書にはそれ自体について「、、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、、、」(へブル人への手紙412と書かれている。

使徒ペテロは言った。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(ペテロの手紙第一123

そしてイエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイの福音書2435

また使徒パウロは聖書について次のように述べている。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(テモテへの手紙第二3:16)

聖書は、イエスについて、イエスが誰であり、何をし、私たちに何を望んでおられるかを教えている。

彼は誰なのか?「この方は本当に神の子であった。」(マタイの福音書2754

何をしたのか?「私たちの罪のために死なれたこと」(コリント人への手紙第一153

私たちに何を望んでいるか?「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

信仰によってイエスをあなたの心そして人生に受け入れると、生きている不滅の神の息吹を受けたみことばが、あなたを新しい人に造り変えてくれる。

神のことばは、イエスへの信仰を選択した人にとって欠かせない糧である。もしあなたがまだこの決断をしていないなら、今日決断されることを心から祈りたい。

聖書はただの書物ではなく、生きていて力強いものだと語ったあのフランス人は正しかった。

キリスト教の祝祭:イースター (2025年3月21日投稿)

イースターはイエス・キリストの復活を思い起こし、祝う日である。4つの福音書にそれぞれ記録されている(マタイの福音書28:16、マルコの福音書16:120、ルカの福音書24:112、ヨハネの福音書20:129)。聖書研究において、2回以上繰り返される内容は、注意を払う必要があるという原則を覚えておこう。

復活の事実は、コリント人への手紙第一15:34に明記されている。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、(1)私たちの罪のために死なれたこと、また、(2)葬られたこと、また、(3)聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」

復活の意義については、コリント人への手紙第一15:17,20で明確にされている。

  1. そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら(1)あなたがたの信仰は空しく(2)あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
  2. しかし、今やキリストは、死者の中からよみがえられました。
  3. 眠った者の初穂として。

イースターはまた、信者の復活を記念し祝う日でもある。

1.信者は、キリストにあって生かされた。

「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(エペソ人への手紙2:5

2.信者は、キリストにあって新しく造られた。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二5:17

自然そのものは、この世のはじめから、イエス・キリストの復活のために人々に備えをしてきた。神はすべての人の心の中に、新しい命、つまりより良い命への復活の願いを植え付けられた。毎年新しい誕生を経験する自然とは異なり、私たちはイエス・キリストの復活に参加することを自分で選び取らなければならない。そしてこれはたった一度きりで良いのである。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネの福音書1:1213

一度生まれ変わったのならば、もうそれ以前に戻ることはない。

もしこれがあなたにとって意味のあることだと思うのならば、クリスチャンの友人を探すか、牧師に会いに行き、次のようなシンプルなリクエストをしてほしい。 私は生まれ変わりたいのです。」

あなたはどのくらい敏感ですか?(2025年3月17日投稿)

私たちは、現在や将来について計画し、神が祝福してくださるように祈ることができる。

いろいろな方法がある。本を読んでチャレンジしたり、神の召命についての講演会を聞いたり、自分には才能があると励ましてくれるカウンセラーの話を聞いたり、兄や姉の成功に刺激を受けたり。これらはそれぞれに価値がある。しかし、神はあなたに別の道を用意されているかもしれない。

一つ確かなことは、神は私たちの歩みを導きたいと願っておられる、ということだ。上記のような方法もあるけれど、主はあなたにもっと良いご計画を用意しておられるかもしれない。祈りを込めて主に導きを求めるなら、主はきっと導いてくださる。しかし、あなたは神の声に敏感になり、神の導きに従う意志を持たなければならない。

詩篇1232には、天の父が私たちのために立てた計画を、私たちがどのように見極めるべきかが、非常に明確に示されている。

「まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、使える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。」

このみことばの場面の設定に注目しよう。あなたは、大勢の人がいて騒がしい食堂で働く使用人だ。客たちは笑い合い、歓談している。食事は半分ほど終わり、あなたは雇い主から少し離れたところに立っている。あなたは常に注意を払い、主人の様子を伺うように訓練されているので、もし彼があなたに何か用があれば、彼は手を挙げ、あなたはすぐに彼のところへ行き、何をしてほしいか小声でたずねるだろう。

この適用の一つの例として、列王記上199-15がある。この箇所でエリヤは命からがら逃げ出し、諦めて死ぬ覚悟をしている。しかし、神は預言者に語りかけられた。最初は激しい、次に地震、次に、そして最後に低いささやき声で。神があなたの注意を引き、指示を与えたいと願われている時には、あなたは神の声に耳を傾けなければならない。

神はあなたを愛し、あなたの人生に素晴らしい計画を持っておられる。しかし、あなたはすべてを神の前に捧げること、そして神の声が聞こえたならば、耳を傾け、主に従わなければならない。どうすれば神の声を聞くことができるのだろうか?それは、主と個人的に静かな時間を持つこと、忠実な従者による聖書の説教を聞くこと、そして神の言葉を個人的に学ぶことだ。

イエスは言った。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書1027

もしあなたが決断を迫られていたり、困難な状況に置かれているなら、地震を待つのではなく、率先して主イエスがささやかれる声に耳を傾けてほしい。上記のステップに従い、確認が必要な場合は、牧師や主にある兄弟姉妹に助言を求めよう。

私は「信頼と従順」という古い歌が大好きだ。なぜなら信じて従う以外に、イエスにあって幸せになる方法はないからだ。

あなたの人生に対する神のご計画に対して、あなたはどのくらい敏感ですか?

ある一つのこと(2025年3月1日投稿)

一人の青年がイエスのもとにやってきて質問した。それはとても明快で、的確で、考え抜かれた良い質問であった。彼は答えを求めていた。「、、、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイの福音書1916

これは何世紀にも渡って、すべてを手に入れても、すべてを経験しても、何かが欠けていると気づいた人々によって問われてきた問いである。

イエスの答えは簡潔であり、神の戒めを守りなさいというものだった。そして、十戒のうちの6つ、殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、父母を敬え、隣人を愛せを引用された。この6つは比較的順守しやすいものであることに注目してほしい。

その男がイエスに返した言葉も非常にはっきりしていた。どうやら彼は子どもの頃からこの6つをすべてを守っていたようだ。そして、彼は質問を「何をしなければならないか」から「何が欠けているか」に言い換えた。彼はとても真摯に質問したし、善い人であったが、永遠の命を得るためには、善い人であるだけでは不十分だった。完全な人、キリストにあって新しい人にならなければならなかったのだ。

イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」(マタイの福音書192122

イエスはルカの福音書92325でもこう述べている。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」

その男には一つだけ欠けているものがあった。彼はそれが何であるかをすぐに悟り、とても悲しんでイエスのもとから立ち去った。

私から読者への質問:イエスのために実りある人生を送ることを妨げているものが、あなたに一つあるとしたら、それは何ですか?(実りある人生については、ヨハネの福音書第15を参照してほしい。)

イエスを救い主として受け入れ、イエスにあって新しく生まれた人となろうではないか。そして、(1)自分の人生を振り返り、(2)変えるべき点に取り組み、(3)喜び、そして実り豊かに生きていこう。

あなたは恐れていますか?(2025年3月1日投稿)

怖いと思ったことはあるだろうか?今日の社会には、戦争、テロ、地震、病気、将来への不安、未知のものなど、恐怖を引き起こすものがたくさんある。

マタイの福音書14で、イエスの弟子たちは湖の上の舟に乗っていた。強い風が吹いていて彼らは舟を漕ぐのに苦労していた。イエスは水の上を歩きながら、彼らに向かって来られた。弟子たちはイエスを見て、ひどく恐れた。

27でイエスは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と彼らに言われた。

そしてイエスが彼らと共に舟に乗り込むと、風は止み、すべてが静まり返った。

信者である私たちは、イエスがともにいてくださることを知っているので、恐れる必要はない。どんな嵐の中にあっても、イエスは平安と静寂を与えてくださる。

イザヤ書4110で神は私たちに「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と語っている。

ヨシュア記19には「恐れてはならない。おののいてはならない。あなたがいくところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられる。」と書かれている。

そしてへブル人への手紙135で神は言われた。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

だからこそ、私たちは確信を持ってこう言える。「主は私の助け手、私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル人への手紙136と。

あなたはどのような嵐の中にいても、神に助けを求めることができる。あなたの人生に神を招き入れるなら、神があなたを守ってくださることに得心が行くだろう。

不安な時こそ、神の言葉を思い出そう。「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」

あなたは何を優先しますか?(2025年2月18日投稿)

私たちは朝仕事に行き、一日中働いて、衣服や食料、住むためのお金を稼いでいる。週6日働く人もいれば、週7日毎日毎日働き続ける人もいる。

長時間働き、しばしば家族のことをないがしろにしながら、その報いは給料という形で得られる。しかし給料だけでは、私たちが望むことや必要なことすべてを成し遂げるために十分でないことがよくある。

しかし責任ある人生を送るためには、これらすべてが必要なのだ。聖書は教えてくれている。「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。」(テモテへの手紙第一58

果たして人生はこれがすべてだろうか?もっと何かがあるのではないだろうか?イエスは問いかけた。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコの福音書836

確かに、私たちは家族を養うために働くべきだが、神との関係をないがしろにしてはならない。

イエスは言った。「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」(マタイの福音書625

そしてまた次のようにも言っている。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。、、、、、」(マタイの福音書61920

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイの福音書633

責任感のある人は働き、家族を養う。しかし、人生に意味を持たせるためには、まずイエス・キリストへの信仰を通して、神との有意義な関係を築かなければならない。どこで、何を、誰と、、、あなたは何を優先するだろうか?忙しいスケジュールの合間をぬって、聖書に啓示されている神を求めてみよう。助けが必要ならば、牧師やクリスチャンの友人に相談してみよう。

神を求めよう。きっとあなたとあなたの家族を祝福してくださるだろう。

小さなことに大きな意味がある (2025年2月18日投稿)

1954年に人気歌手キティ・カレンがレコーディングした曲は瞬く間に人気を博した。タイトルは『Little Things Mean a Lot(小さなことに大きな意味がある)』(邦題は『灼熱の恋』)。愛と愛への渇望を歌った感動的な曲だった。世俗的な歌ではあったが、私はとても大事な霊的類似点に気づいた。

この歌は「大きなもの 」を超越し、「小さなもの 」に完全に焦点を合わせ愛について語っている。確かに小さなことには大きな意味がある!しかし、私たちの天の父は、大きなものから小さなものまで、日々私たちを祝福してくださっている。

以下は、愛と確信を求める祈りの霊的意味として解釈できるこの歌のいくつかの節である。:

道に迷った時は手を貸してほしい。泣きたい時には肩を貸してほしい。晴れの日でも曇りの日でも、私が憩える心を与えてほしい。あなたが私を忘れていないことの証として、「秘密の微笑み」の温もりを送ってほしい。いつまでも、今も、そしてこれからも「小さなこと」には大きな意味があるのだから。

信者として、ついつい大きなこと(最後の車のローン、住宅ローン、昨年の休暇の費用、子供の歯列矯正費用、母親の手術費用など)にばかり気を取られ、小さなことは見落としがちだ。

しかし当たり前だと思ってしまっている小さなことはどうだろう?タイヤがパンクした時に助けてくれた車の運転手、娘が残してくれた「愛してる」と書かれたメモ、辛い時に上司から「今日は休んだらどう?」と言われたこと、友人から励ましの電話など。大きなことには感謝するが、しかし、一日を明るくしてくれるのは、思いがけない、小さな出来事だったりするのだ。

聖書はこのことについて明確に述べている。「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への手紙第一518

しばし時間をとって、あなたにとって大きな意味を持つ小さなことについて考えみよう。そして天の父に感謝し、そして励ましを必要としている誰かと分かち合ってほしい。

キティ・カレンは正しかった。小さなことには大きな意味がある