この地上に残していくか?それとも天国へ先送りにするか?(2025年6月5日投稿分)

私の友人は第二次世界大戦中、アメリカ海軍で数年を過ごした。彼は任務を終え、太平洋の島で多くの人たちと共に、帰国の途につくための政府の輸送機を待っていた。

待つこと数日、ついに彼の番が来た。彼はシーバッグ(船乗り用の鞄)を掴み、列に並んだ。彼の搭乗する時間になると、彼のバッグを入れるスペースがないと告げられた。その中には、衣類、お土産、必需品、思い出など、彼の持ち物全てが入っていた。着ている服以外、何もかもが。

しかし彼は決断を下し、シーバッグを捨て、飛行機に飛び乗って故郷へと向かった。これは実話だが、人生にとって重要なことを教えてくれている。

私たちは皆、いつか死んで、この世に自分の持っているものすべてを置いていくことになる。しかし、何も持って帰ることができなかった上記の船員とは異なり、私たちには天国の家へと送り出す機会が与えられている。

イエスは言われた。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイの福音書6:1920

どうやって天に宝を積むのだろうか?時間、富、健康、人間関係、夢など、神があなたに与えてくださったものの一部を神にお返し(先送り)するのだ。そして、与えることに関する聖書の約束を思い出してほしい。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」(ルカの福音書638

ここでの質問はとてもシンプルだ。あなたが死んだら、あなたが持っているものを地上に残していくのか?それともその一部でも神にお返し(先送り)することを選ぶのか?もし神にお返しするのであれば、あなたは天に宝を持つことになる。

その方法についての質問があれば、できる限りお手伝いさせてもらいたいと思う。

霊的文法のレッスン:時制(2025年5月26日投稿分)

あなたは文法上どの時制でイエスのために生きているだろうか?過去、現在、未来?またはすべての時制の中で生きているだろうか?

すべての人に、どの時制でクリスチャンとして生きていくのかを決める機会が与えられている。そしてこの質問に対するあなたの答えから、あなたのイエスとの歩みを理解することができる。

過去形で生きているのならば、過去の思考、行動、失敗、成功、決断に支配されてしまっているが、現在進行中の活動においては成果が上がっていない。ルカの福音書13章のいちじくの木のたとえは、この「気持ちはあるが実を結ばない」という問題を扱っている。

現在形で生きているのならば、あなたは今この瞬間ここで働き、生きている。過去と未来は、良い意味でも悪い意味でもあなたに影響を与えるが、あなたを支配することはない。イエスは、あなたに過去を忘れること、しかし過去から学ぶこと、そして未来のためにイエスに信頼し、そして今日イエスに従うことを望んでおられる。

もしあなたが未来形で生きているのならば、主のために今何をすべきか分かっているのに、それを後回しにする方法を見つけているということだ。あなたが待っているその「後」はまず来ることはないだろう。

聖書は、過去、現在、未来の問題ではなく、3つの時制を同時に生きることの必要性と有益性を教えている。これは、ヨハネの福音書15で説明されているように、私たちがキリストにとどまるときに実現される。

私たちは過去から学び、現在において遂行し、神の助けを借りて未来を計画しなければならない。

そうすれば、ヨハネの福音書15章のぶどうの木の実りを味わい、さらにもっと多くの実を結ぶことができるだろう。

真の愛の物語(2025年5月18日投稿分)

その男の子は5歳だった。彼は、双子の弟と母親、父親とともに祖父を訪ねていた。双子は祖父ととても親密で良い関係にあり、祖父も彼らを心から愛していた。

家族は帰宅するために、車に荷物を積み込んでいて、祖父は前庭の車のそばに立っていた。男の子の父親が外に出てきて「息子がおじいちゃんと別れて家に帰らなければならないので泣いている」と言った。祖父はなぜ泣いているのか男の子に尋ねると「おじいちゃんと別れたくないんだ。家に帰りたくない。一緒にここにいたいよ。」と答えた。

その子はイエスのことを知っていて、イエスが人々を愛していることも知っていた。そこで祖父は、イエスは天国に住んでいて、彼がとても愛している人たちと一緒にいるためにこの地上に来たのだと説明した。イエスが天に帰ると知ると、人々は泣き出したけれども、イエスは彼らに、もしイエスが天国へ帰らなければ、彼らと一緒になるために戻ってくることはできないと話された。弟子たちは、イエスにまた会えると聞いて、とても喜んだ。

祖父は男の子に言った。「もし家に帰らなければ、私に会いに戻ってくることはできないんだよ。私に会いに戻って来たいかな?」その子は驚いて目を見開き、「うん」と答えた。「それなら、家に帰らなければ。そうすればまたここに戻って来られるんだよ。」彼は考えた末に、「そうか、ここにいたら戻ってこられないんだね。分かった!お家に帰るよ。」と言った。戻って来られることが分かり安心した男の子は、飛び上がり、嬉しそうに家に帰って行った。

祖父はこの会話について考えながら、イエスが天に帰られ自分たちのもとを去られることを知った弟子たちが非常に動揺したので、イエスは、「わたしは去って行くが、去らなければ、戻って来ることはできません」と言って、弟子たちを安心させたことを思い出した。

そしてイエスは彼らに「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネの福音書1413と語った。

孫が祖父に再び会えることを理解したのと同じように、弟子たちは、イエスを失うわけではなく、イエスが戻ってくることを理解したのだった。

確かに、イエスは地上に来られた後に天に戻られたが、また必ず帰ってこられる。これこそが私たちの希望だ。もしあなたがイエスを救い主として信じたのならば、いつの日かイエスが戻って来られ、あなたをご自分の子どもとしてくださる。

もし主イエスを信じていないのであれば、今すぐに信じ、主があなたを神の子の一人としてくださる時を期待して待とう。

共にくびきを負う相手を選ぶ(2025年5月5日投稿分)

気付いているかどうかは分からないが、人は人生のあらゆる面において完璧を求めている。私たちは望むもの全てにおいて完璧を見つけることは不可能だが、できる限り近づこうとする。新車を買うなら、完璧なものを望むし、もし新車を買う余裕がないなら、できるだけ完璧に近いものを求める。結婚生活においては、完璧な伴侶を望むが、見つけることは難しい。しかし勇気を出してほしい。神はあなたの目にあらゆる点でほぼ完璧と思える人をあなたの人生にもたらすことができるのだから。

人生において、ほとんどすべての男女が直面する二つの決断がある。それは、誰と共に「永遠」を過ごすかということ、そして誰と共に「時間」を過ごすかということだ。より正確に言えば、「永遠」と「時間」を共にするクリスチャン仲間を、どのように選ぶのかということだ。

イエスを個人的な救い主として信じると決心した時、「永遠」の問題は解決される。あなたは完璧な相手を見つけたことになる。結婚相手を選んだ時には、「時間」の問題が解決される。

ここで私たちが焦点を当てるのは、結婚と共にくびきを負う真の相手についての指針である。あなたは人生の伴侶に何を求めるだろうか?

質問1:その人はクリスチャンですか?もし答えが「いいえ」なら、もう少し考えた方が良いかもしれない。聖書は明確に述べている「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、何のつながりがあるでしょうか。」(コリント人への手紙二 6:14質問1の答えが「はい」なら、質問2に進もう。

質問2:私と一緒に聖書を学ぶことに興味がありますか?もし答えが「はい」なら、二人で一緒に聖書を読み、みことばを学んでほしい。もし答えが「いいえ」なら、あなたは共にくびきを負う真の相手をもう少し探し求めた方が良いかもしれない。

人間の3つの側面(2025年5月3日投稿分)

すべての人には三つの側面がある。(1) 他人から見たあなた、(2)自分から見たあなた、そして(3) 神から見たあなただ。この三つの側面を理解することは、イエス・キリストの弟子として成長し、成功するために不可欠なことである。

周りの人はあなたをどう見ているだろうか?あなたは魅力的で、身だしなみもきちんとしていて、感じがよく、献身的な信者で、一緒にいて楽しい人であって、ガラテヤ人への手紙52223にある「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」という実を体現している人だと見ている。あなたはそれに対して肯定的で、周りの人からどう見られているかに満足している。

では、あなたは自分自身をどう見ているだろうか?他人を愛せないことが多く、喜びの少ない幸福感を持ち、心の平安を見つけるのに苦労し、特定の人々に対する忍耐を欠き、多くの分野で自制心を欠いている。挙げればきりがないが、私の言いたいことはお分かりいただけるだろう。

この矛盾を使徒パウロはローマ人への手紙7:15,18で表現している

「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。、、、、私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。」

最後に、神はあなたをどう見ておられるだろうか? 神はあなたを、深く愛する者として見ておられる。その愛ゆえに、この世に人として生まれ、人として生き、人として死ぬために来てくださった。 そしてご自身の血潮によって、あなたの永遠の命の代価を支払ってくださった。あなたは今、主のものであり、この真理は聖書全体を通して示されていて、コリント人への手紙第一13031に要約されている。「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

あなたへのアドバイスは次の通りだ。(1) 他人があなたをどう見ているかを素直に受け入れること。(2) 過去の自分と決別し、自分自身を正すこと。(3) イエスに力づけられながら忠実に生きること。そして覚えておいてほしい。私たちはみな同じ状況にいるのだということを。

支えてくれる錨(2025年4月24日投稿分)

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、、、」(へブル人への手紙619

定義上、錨(いかり)とは、湖、川、あるいは海で、どんな大きさの船でも、岩にぶつかったりその他のトラブルに巻き込まれることがないようにしっかりと繋ぎ止めておくものである。今日は、魂の錨について考えてみたい。聖書における魂とは、真のあなたのことだ。では、あなたの魂または人生にとっての錨とは何だろうか?日々の生活のプレッシャーの中で、あなたの人生に安定や平安をもたらしてくれるものは何であろうか?

多くの人にとって、それはお金である。お金を稼ぐために1日12時間から14時間、あるいは20時間働く。銀行口座の残高が増えれば増えるほど、安心感が増すのだ。

不動産に錨を見出す人たちもいる。平均的には、人は総収入の30%を不動産の購入と維持に費やしている。さらに8~10%を交通費に、さらに10%を健康維持に使う。

おそらく最も一般的な錨は、退職後の資金だろう。老後資金のためには、総収入の70~80%に相当する資金の計画を立て、備えるべきだ。しかし、資金を適切に管理し、保護しなければ、すべてを失う可能性もある。

問題は、あなたが何を持っているか、どれだけ持っているかではなく、何を持っていないかである。すべての人は神を愛し、神にのみ仕えるために創造された。聖書には「あなたがたは神と富とに使えることはできません。」(マタイの福音書6:24とはっきり書かれている。

もしあなたが上記のものをすべて持っているなら、それはあなたにとって幸せなことだ。しかし、これらすべてを手にしてもなお、心に平安がないのであれば、神はあなたを助けたいと願っておられる。私には裕福な友人もいれば貧しい友人もいるが、皆お金では買えない平安を持っている。天の父は、収入に関係なく、あなたにもこの平安を持ってほしいと望んでおられるのだ。

神お一人だけが、あなたに錨と平安を与えてくださることができる。もし、あなたがすべてを手にしているにもかかわらず、心に平安がないのであれば、牧師や親しいクリスチャンの友人のところに行って、思いを分かち合うことをお勧めしたい。

さらに理解を深めるために、ルカによる福音書122234も読むことをお勧めする。

あなたの日もきっと来る(205年4月16日投稿分)

「天が主への賛美で満たされていた日、罪によって限りなく真っ暗闇だった日、イエスは処女から生まれ、人々の間で生き、私の救い主となられた。主は生きながらにして私を愛し、死によって私を救い、埋葬によって私の罪を遠くへ運び去ってくださった。復活の際には、永遠に【     】を義とされた。主は必ず来られる。ああ、栄光に満ちた日よ。」(讃美歌 One day when heaven was filled with His praisesから抜粋)

あなたが過去の人生に満足していて、今生きている人生にも満足していて、死んだら何が起こるかについて疑問を抱いていないのであれば、これ以上読む必要はないだろう。

しかし、もし過去の出来事があなたを苦しめ、今現在も人生で問題を抱え、そして将来死ぬことを考えて心が痛んでいるなら、上記の讃美歌の歌詞をよく読んで、空欄に注目してほしい。そして、聖書のヘブル人への手紙927節と28を読んでもらいたい。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」

そしてローマ人への手紙 10:9,10 に耳を傾けるならば、あなたは熱心に彼を待つことができるだろう。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

信じて告白したら、讃美歌の空欄にあなたの名前を入れてほしい。それから、牧師や親しいクリスチャンの友人のもとへ行き、そのことを分かち合おう。あなたが日々信仰によって主と共に歩むとき、主はあなたを必ず祝福してくださるだろう。

ナポレオンは正しかった(2025年4月2日投稿分)

ナポレオン・ボナパルトは1804年にフランス皇帝に即位し、西ヨーロッパと中央ヨーロッパの大部分を覆い尽くす帝国を築き上げた。彼の軍隊は次々と敵を倒し、無敵だった。

この戦争の天才は聖書について何を語ったか?彼は言った。「それはただの書物ではなく、生命ある被造物であり,それに敵対するすべてのものを征服する力を持っている。」

聖書にはそれ自体について「、、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、、、」(へブル人への手紙412と書かれている。

使徒ペテロは言った。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(ペテロの手紙第一123

そしてイエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイの福音書2435

また使徒パウロは聖書について次のように述べている。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(テモテへの手紙第二3:16)

聖書は、イエスについて、イエスが誰であり、何をし、私たちに何を望んでおられるかを教えている。

彼は誰なのか?「この方は本当に神の子であった。」(マタイの福音書2754

何をしたのか?「私たちの罪のために死なれたこと」(コリント人への手紙第一153

私たちに何を望んでいるか?「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

信仰によってイエスをあなたの心そして人生に受け入れると、生きている不滅の神の息吹を受けたみことばが、あなたを新しい人に造り変えてくれる。

神のことばは、イエスへの信仰を選択した人にとって欠かせない糧である。もしあなたがまだこの決断をしていないなら、今日決断されることを心から祈りたい。

聖書はただの書物ではなく、生きていて力強いものだと語ったあのフランス人は正しかった。

キリスト教の祝祭:イースター (2025年3月21日投稿分)

イースターはイエス・キリストの復活を思い起こし、祝う日である。4つの福音書にそれぞれ記録されている(マタイの福音書28:16、マルコの福音書16:120、ルカの福音書24:112、ヨハネの福音書20:129)。聖書研究において、2回以上繰り返される内容は、注意を払う必要があるという原則を覚えておこう。

復活の事実は、コリント人への手紙第一15:34に明記されている。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、(1)私たちの罪のために死なれたこと、また、(2)葬られたこと、また、(3)聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」

復活の意義については、コリント人への手紙第一15:17,20で明確にされている。

  1. そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら(1)あなたがたの信仰は空しく(2)あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
  2. しかし、今やキリストは、死者の中からよみがえられました。
  3. 眠った者の初穂として。

イースターはまた、信者の復活を記念し祝う日でもある。

1.信者は、キリストにあって生かされた。

「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(エペソ人への手紙2:5

2.信者は、キリストにあって新しく造られた。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二5:17

自然そのものは、この世のはじめから、イエス・キリストの復活のために人々に備えをしてきた。神はすべての人の心の中に、新しい命、つまりより良い命への復活の願いを植え付けられた。毎年新しい誕生を経験する自然とは異なり、私たちはイエス・キリストの復活に参加することを自分で選び取らなければならない。そしてこれはたった一度きりで良いのである。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネの福音書1:1213

一度生まれ変わったのならば、もうそれ以前に戻ることはない。

もしこれがあなたにとって意味のあることだと思うのならば、クリスチャンの友人を探すか、牧師に会いに行き、次のようなシンプルなリクエストをしてほしい。 私は生まれ変わりたいのです。」

あなたはどのくらい敏感ですか?(2025年3月17日投稿分)

私たちは、現在や将来について計画し、神が祝福してくださるように祈ることができる。

いろいろな方法がある。本を読んでチャレンジしたり、神の召命についての講演会を聞いたり、自分には才能があると励ましてくれるカウンセラーの話を聞いたり、兄や姉の成功に刺激を受けたり。これらはそれぞれに価値がある。しかし、神はあなたに別の道を用意されているかもしれない。

一つ確かなことは、神は私たちの歩みを導きたいと願っておられる、ということだ。上記のような方法もあるけれど、主はあなたにもっと良いご計画を用意しておられるかもしれない。祈りを込めて主に導きを求めるなら、主はきっと導いてくださる。しかし、あなたは神の声に敏感になり、神の導きに従う意志を持たなければならない。

詩篇1232には、天の父が私たちのために立てた計画を、私たちがどのように見極めるべきかが、非常に明確に示されている。

「まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、使える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。」

このみことばの場面の設定に注目しよう。あなたは、大勢の人がいて騒がしい食堂で働く使用人だ。客たちは笑い合い、歓談している。食事は半分ほど終わり、あなたは雇い主から少し離れたところに立っている。あなたは常に注意を払い、主人の様子を伺うように訓練されているので、もし彼があなたに何か用があれば、彼は手を挙げ、あなたはすぐに彼のところへ行き、何をしてほしいか小声でたずねるだろう。

この適用の一つの例として、列王記上199-15がある。この箇所でエリヤは命からがら逃げ出し、諦めて死ぬ覚悟をしている。しかし、神は預言者に語りかけられた。最初は激しい、次に地震、次に、そして最後に低いささやき声で。神があなたの注意を引き、指示を与えたいと願われている時には、あなたは神の声に耳を傾けなければならない。

神はあなたを愛し、あなたの人生に素晴らしい計画を持っておられる。しかし、あなたはすべてを神の前に捧げること、そして神の声が聞こえたならば、耳を傾け、主に従わなければならない。どうすれば神の声を聞くことができるのだろうか?それは、主と個人的に静かな時間を持つこと、忠実な従者による聖書の説教を聞くこと、そして神の言葉を個人的に学ぶことだ。

イエスは言った。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書1027

もしあなたが決断を迫られていたり、困難な状況に置かれているなら、地震を待つのではなく、率先して主イエスがささやかれる声に耳を傾けてほしい。上記のステップに従い、確認が必要な場合は、牧師や主にある兄弟姉妹に助言を求めよう。

私は「信頼と従順」という古い歌が大好きだ。なぜなら信じて従う以外に、イエスにあって幸せになる方法はないからだ。

あなたの人生に対する神のご計画に対して、あなたはどのくらい敏感ですか?