肉体的問題?それとも霊的問題?(2025年2月8日投稿分)   

「人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊はだれが担えるだろう。」(箴言18:14)

人生で最も困難な部分は、肉体的なことではなく霊的な部分だろう。

現代医学は、心臓、肺、肝臓など、壊れた身体の一部を移植したり、修復したりすることができる。視力や聴力の低下は医療機器によって改善することができる。病気や感染症は抗生物質で抑えることができる。

しかし、孤独、落胆、心痛、失敗、フラストレーション、そして多忙な活動、そして一日の時間が足りない状況はどうだろう。打ちひしがれた心の救済はどうしたらいいのだろうか?

イエスは言った。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書112830

イエスが「……わたしのくびきを負って……」(29節)と言われたことに注目してほしい。くびきとは、二頭の家畜をつなぐための馬具のことである。一頭は大抵年上で、賢く、強い者であり、別の一頭はその年齢、知恵、力の恩恵を受けるのだ。

イエスはあなたの人生の一部となることを望んでおられる。くびきを共に負いたいと願っておられる。あらゆる問題を抱えた人生を生きるあなたに寄り添いたいと望んでおられる。あなたがイエスのくびきを負うとき、イエスはあなたに安らぎを与えてくださる。しかしイエスのくびきは、私たちが(自分の意思で)「選ぶ」ということを見落としてはならない。これは決して強制されるものではないのだ。

主は、あなたから困難な状況を取り除くと約束はしていないが、その状況において、あなたと共に歩むことを約束してくださっている。

聖書は言う。「主ご自身が、『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(へブル人への手紙1356

詩篇の作者は、この原則を次のように語っている。「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」(詩篇14514

あえて言うなら、現代では、壊れた肉体よりも壊れた精神に苦しむ人の方が多い。私たちは皆助けを必要としており、主は喜んで私たちの傍らに来て、共にくびきを負ってくださる。これは弱さの表れではなく、私たち全員が必要としている強さの表れなのだ。

最後に、この世の無益さと暗闇から目をそらし、イエスに目を向けることをお勧めしたい。これが最初のステップだ。イエスはあなたの人生に招かれるのを待っておられるし、あなたの力となり光となることを望んでおられる。第二のステップは、主があなたの人生に、共にくびきを負ってくれる真の仲間を与えてくださるように、主に祈ることだ。それが実現したら、ただ主に感謝すればよい。

最後に一言。共にくびきを負ってくれる仲間になるのには、年を取り過ぎていることも、若すぎることもない。年齢は関係ないのである。

手、そして各指が連携することの価値(2025年1月25日投稿分)

最近書いた記2025年6月9日)で、学習を成功させるためには5つのステップがあると述べた。私は手の指(小指、薬指、中指、人差し指、親指)を例に挙げてみた。そしてこの5本の指を、記憶術を成功させるためのステップに当てはめ、聖書の勉強と記憶のために応用するようにした。

記憶からの定着率は理論的には100%であり、聴覚にいたっては5~10%だった。この率は純粋に学問的なものであり、霊的意味合いはほとんどないのだが、私はそれが正確であると考える。

しかしクリスチャン生活におけるこれら 5 つのステップ(注:各指による聖書の勉強法)を考慮すると、聞くこと、読むこと、勉強すること、暗記すること、黙想すること、それぞれの指の価値は成功するためには等しく重要である。

何を読むかで人生は変わる。何を聞くかで人生は変わる。何を学ぶかで人生は変わる。何を記憶するかで人生は変わる。何を黙想するかでも、また人生は変わるのである。

人生を変えたい、あるいは人生を向上させたいのであれば、人生の非常に重要な領域について考えてみよう。そして、ヤコブの手紙125には、祝福を受けるのは聞く者ではなく、みことばを行う者であると書かれていることに注目しよう。

あなたのやるべきことを確認してほしい。

  1. 神のみことばを日常的に聞いているか?
  2. 聖書を忠実に読み、印をつける(線引きや書き込み)のための仕組みを持っているか?
  3. グループ以外の個人的な聖書の学びの時間を持っているか?(静寂の時)
  4. 暗記した聖句を忘れないようにするための、復習システムを持っているか?
  5. 一日を通して聖書の聖句を瞑想できるシステムはあるか?

これらの質問にすべて肯定的に答えられるのならば、あなたは実を結び、さらに実を結び、より多くの実を結ぶ道を歩んでいることになる。(ヨハネ15章)

この訓練における成功は、知ることではなく実行することにあることを覚えておこう。

祈りながら、各分野における自分の生活を評価し、調整を加え、前進し続けてほしい。

あなたの旅路に主の祝福がありますように!

生きるべきか、死ぬべきか (2025年1月25日投稿分)

これはおそらくウィリアム・シェイクスピアの著作の中で、最も有名で、最も引用される一節であり、『ハムレット』第3幕第1場に登場する。この言葉は、非常に重大な決断を迫られている人の苦悩を表している。彼は圧倒され、取り乱している。ハムレットが本質的に問うているのは、「戦うのか、それとも諦めるのか」ということだ。

聖書には、圧倒的に困難な苦闘に直面したもう一人の人、使徒パウロについて書かれている。

しかし、これらは政治的な問題ではなく、霊的な問題であり、彼にあきらめるという選択肢はなかった。ローマ人への手紙第7は、パウロが直面した苦悩、そして今日のすべての信者が直面する苦悩を反映している。それは「正しいことをしたいのに、間違ったことをしてしまう。」というものだ。

すべてのクリスチャンは間違ったことをする誘惑に駆られる。聖書が「すべての人は罪を犯した」と言うのは、まさにそのことを指しているのだ。

世の中では、人間には少なくとも3つのカテゴリーがあると言われている。すなわち、善良な人、悪い人、無関心な人である。しかし聖書では、失われた者と贖われた者の2つしかないと言っている。しかし、どちらのグループも、ハムレットとパウロが答えなければならなかった同じ問いに直面している。それは、立ち上がって戦うか、それとも逃げて隠れるかということだ。

この葛藤はローマ人への手紙7章19節に要約されている。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」もちろん、これは自由選択の原則である。このジレンマの一例が、創世記の中に出て来る。蛇がエバに近づいたとき、彼はエバに、神に背く機会を与えた。彼女には、正しいことをするか、それとも間違ったことをするか、という選択肢があった。私たちは皆、彼女がどのような選択をしたかを知っている。

ここでパウロが直面している状況にお気づきだろうか?彼は、あまりにも頻繁に正しくないことを選択してしまう自分を好ましいと思っていない。絶望の中で彼は、信者なら誰でも一度は尋ねたことがある問いかけをし、そしてすぐに答えを見いだす。

「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ人への手紙72425

もし私たちが自分自身の力で罪と闘おうとするならば、それは問題である。それは霊的敗北につながる。しかし、罪を犯してしまった時には、直ちにヨハネ第一1章9節の約束を思い出そう。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

次の約束も。「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言2813

サタンに惑わされてはならない。これは「生きるべきか、死ぬべきか」の問いかけではなく、「罪を告白して前進する 」決断である。

そうすれば、天の父はすべてを白紙に戻し、あなたは新たなスタートを切ることができる。私たちの神は偉大な神である!

神はどこにいるのか?(2025年1月23日投稿分)

これは何世紀にも渡って、あらゆる言語の人々によって問われてきた質問だ。

その答えは、聖書の中にはっきりと記されている。

「なぜ国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか』と。私たちの神は、天におられ、、、」(詩篇11523

そう、私たちの神は天におられる。しかし、神はこの世界にもおられ、神に信頼を置く人々の心の中にも生きておられる。イエスは言った。

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。、、、」(ヨハネの福音書141517

真理の御霊、すなわち聖霊は、永遠に、どこにいてもすべての信者とともにある。聖書はまた、「あなたを見捨てない。」(へブル人への手紙135と言っている。神はあなたを神の子どもの一人として訓練されるかもしれないが、決してあなたを見捨てたりはしない。

ここテキサス州アービングにおいて、神は私たちと共におられ、私たちは神に祈ることができる。たとえ高度3万フィートの飛行機に乗っていても、神は私たちと共におられ、私たちは神に祈ることができる。たとえ故郷から6000マイルも離れた場所にいても、神は私たちと共におられ、私たちは神に祈ることができる。神は常に、私たちがどこにいるのか、私たちに何が必要なのかをご存知である。

神は、ご自分の子どもたちにとって遠く離れた、手の届かない場所に住んでいるわけではない。神はご自分の民と共に生き、彼らの人生に深く関わりたいと願っておられる。

私たちは、私たちを助けることのできない偶像に仕えたり、崇拝したりはしない。聖書は、偶像について次のように述べている。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、、、、」(詩篇11546

天の父は私たちを見て、私たちの声に耳を傾け、私たちの願いを聞いてくださる。

私たちは聖書に啓示された生ける神に仕え、礼拝する。だから今日、心を決めて神を求め、あなたの人生における神の導きを求めよう。

神はどこにいるのか?神はおられる!神の子たちがいるところならどこにでも!

どれくらい遠い?(2025年1月22日投稿分)

私の好きな詩篇の一つに詩篇103篇がある。詩編全体は、神がその子どもたちに与えた多くの祝福について解説してくれている。詩編103篇にある多くの節の中から、今朝私は特に12節に感銘を受けた。

「東が西から遠くはなれているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

私からあなたへの質問は、「東と西はどれくらい離れているか?」というものだ。

何年も前に、私は引退したパイロットからある違いについて説明を聞いたことがある。

彼はまず南北と東西の違いについて説明し始めた。彼は、非常に大きな違いが一つあることを話してくれた。あなたがダラスから北に向かって飛行すると北極点に到達するが、北極点上空を飛行をし続けると、今度は南に向かうことになる。さらに南下を続けると南極点に到達し、南極点を越えて進んでいくと、今度はダラスに向かって北上することになる。

対照的に、もし私がコンパスを東に設定すれば、私は東に進むことになる。そしてコンパスを変えない限り、私は東に進み続けることになる。

私のコンパスが東に設定されている限り、私は決して西に行くことはないのだ。

聖書には「東が西から遠くはなれているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」と書かれている。

これは単なる意味論の問題なのだろうか?それとも北と南、東と西には違いがあるのだろうか?神の摂理と適用においては、答えは「YES」である。

北から南は循環であり、東から西は直線である。循環というのは、進路を変えなければ過去が繰り返されるという意味であり、直線というのは、過去は私の後ろにあり、未来は私の前にあるという意味である。

人は信仰によってイエスを個人的な救い主として受け入れると、その人は神の家族に生まれ、それを変えることは誰にもできない。一直線の道が始まり、それが永遠に続いていく。新しいクリスチャンの人生が始まるのである。聖書は、イエスへの信仰によって神の家族に入った人は、決して神の家族から引き離されることはないと明確に教えている。神のご計画の中に「回れ右」は決してないのである。

聖書には、この結論を裏付ける多くの節がある。そのうちの二つを紹介しよう。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネの福音書524

「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネの福音書102730

私たちが天の父とともに未来に向かって歩み続けるとき、私たちは罪から解放されているのだろうか?答えはもちろん「NO」だ。私たちは、罪に対する永遠の裁きからは解放されているが、罪による肉体的な結果からは解放されてはいない。これまでに生きた人の中で、完全に罪から解放されていたのはただお一人、私たちの尊いイエスだけである。私たちが罪を犯してしまう時、そして実際必ず犯してしまうのだが、私たちはありのままに神に罪を犯したことを告白することだ。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一19

「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言2813

では、どのくらい遠いのだろうか?東から西までの距離と同じくらい遠いのだ。

あなたへの質問はいたって簡単だ。あなたはどの方向へ行くのだろうか?あなたの答えによって、あなたが永遠に過ごす場所が決定する。

あなたは誰の目から見て良い人か?(2025年1月22日投稿分 )

良いとは、どの程度良ければいいのだろうか?ある若くて非常に熱心なクリスチャンの友人は、クリスチャンでない彼女の夫が、いろいろな意味において彼女よりずっと良い人であると話してくれた。

彼女は、子どもや夫に対してよく怒ってしまうし、イライラしてしまうことがあるらしい。しかし彼女の夫はいつも状況を把握して、めったに怒ったりイライラすることはないという。彼女は夫が自分よりもはるかに良い人間であると思っていて「彼は本当に良い人だから、神など必要ないのかもしれない。」と私に言った。

聖書にはこう書かれている。「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(サムエル記第一167)

すべての人が神を知る必要がある。なぜならばすべての人が心の問題を抱えているからだ。その問題とは罪であり、最も基本的な罪は、神を信じず、神からの賜物である永遠の命を受け取らないことである。

イエスは弟子たちに、聖霊は来られると言われた。そして「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネの福音書1689)

人にとっての本当の問題とは、怒りや焦り、その他の罪のことではない。問題は、不信仰の心にある。

かつて、非常に道徳的で、教養があり、信心深い男が、神を知りたいとイエスに相談したことがある。イエスはその男に言われた。「あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネの福音書37)

イエスはこの男の外見的な罪には触れずに、心の問題に真っ向から向き合われた。心は変えられなければならないのだ。

友人の夫は、彼女より良い人かもしれないが、神は心をご覧になる。彼女はイエスを信じているのだから、いつの日か主の御前に迎え入れられるのである。

彼女は神に喜んでもらえるように生き、夫のために祈り、聖霊が彼の不信仰を悟らせてくださることを忍耐強く待つ人生を歩むべきだろう。

では、良いとはどの程度良ければいいのか?イエスは言われた。「良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」(ルカの福音書18:19)

天の父が信者たちを見る時、神は御子の義をご覧になる。

神があなたを見る時、神はあなたの中に誰を見るだろう?

手とその機能について (2025年1月22日投稿分)

これは何年も前に教えてもらったものだが、その重要性が衰えたことは一度もない。これは実り豊かなクリスチャン生活を送る鍵である。

次のことをやってみてほしい。平らな面に手を置いて、5本の指を見る。もし何らかの理由でこの中の1本失うとしたら、あなたはどれを選ぶだろうか?輪ゴムを使って、一時的にそれぞれの指を使えなくして、指の機能的価値をみていきたいと思う。

第一指:小指は、指輪をはめる以外、重要度が最も低い指であるように思える。小指を使わずに他の4本の指で何かを拾ってみてほしい。残りの4本の指でだけでも、それなりに機能するはずだ。しかし、小指を使わずに両手を握りしめてみてほしい。小指がないと、こぶしがかなり弱く見える。

第二指:結婚する時には、愛と献身のシンボルとして、この指に指輪をつけるのが伝統である。だから通常はring finger と呼ばれる。薬指を使えないようにして、他の4本の指だけを使うと、手がどのように機能するか試してみてほしい。手の活動範囲は限られてしまい、それなりには使えるが限定的となる。

第三指:中指は他の4本の指を安定させる役割を担っているようで、これは非常に重要なことである。手は、他の4本の指だけで機能しているが、それは著しく制限されてしまう。またこの指は5本の指の中で一番長い指であることに注目してほしい。しかしながら、5本の指をこぶしにすると、すべての指が同じ長さに見える。なぜこのことが重要なのだろうか?その時指はチームとして機能しており、こぶしにも有用性があることがわかる。

第四指:この指は人差し指、またはポインターと呼ばれる。他の4本の指すべてと共に非常によく機能する。実際には先のどの3本の指よりも、多く使われているかもしれない。しかし、他の 3 本の指がなければ、その効果は著しく制限されてしまう。私は「著しく」を強調したい。

第五指:私の考えでは、親指と呼ばれる第5指は単に重要なだけでなく、他の4本の指を正しく使うために不可欠な存在である。今すぐに、親指を使わずに手で簡単なエクササイズをやってみてほしい。他の4本の指は、親指がないとほとんど何もできないことが分かる。しかし現実には、成功するためには、すべての指が他のすべての指に依存している。成功する人は、それぞれの指を最大限に発揮させようとするものだ。

ではここで、キリストのからだの機能におけるそれぞれの指の象徴的意味を説明しよう。

小指はみことばを「聞く」ことの象徴だ。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ人への手紙1017調査によれば、人は聞いたことの5-10%ほどしか覚えていないらしい。

薬指はみことばを「読む」ことの象徴である。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」(ヨハネの黙示録13人は読んだ内容の15~25%を保持することができるようだ。

中指は、みことばを「学ぶ」ことを意味する。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」(使徒の働き1711人は学んだことの35~50%を覚えていることができるらしい。

人差し指は、みことばを「暗記する」ことだ。そうすることで、神によく仕えること、サタンとその誘惑に打ち勝つことを可能にしてくれる。「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから、私が迷いでないようにしてください。私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」(詩篇119911理論上、暗記したことは100%覚えているということになる。しかし、これは理論上の話であり、復習することによってさらに強化することが可能となる。イエスがサタンから誘惑を受けたとき、神の言葉だけを用いて対応したことに注目しよう。

親指は、手の中で最も重要な部分である。それは神のことばを「黙想する」ことを示す。「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」(ヨシュア記18この節の「行う」というキーワードに注目してほしい。「ドアの外に立つことは、ドアの中に入ることではない」という古い格言を思い出そう。

適用:あなたの手を見て、それぞれの指の象徴的意味について考えてみてほしい。自分の強みを見極めて、弱い点を補おう。そして神を探求することに邁進しよう。

成功への鍵:静かな時を持つこと (2025年1月22日投稿分)

新しい信者とは、発見されたばかりのダイヤモンドのようなものだ。ダイヤモンドが発見されたとき、それは将来なるべき姿であるダイヤモンドとは似ても似つかないものである。

人がイエスに対する信仰によって神の家族の一員となった時、その人はダイヤモンドの原石のようであり、浄化され、削られ、研磨されていく。聖書ではこの過程を、新しい信者の霊的成長と呼ぶ。

ペテロの手紙第一213では、この過程についてよく描かれている。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨て、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」

「生れたばかりの乳飲み子」という言葉に注意し誤解しないでもらいたい。これは霊的乳飲み子という意味であって肉体的な意味ではない。イエスにあって新しい人生を歩み始める人は、10歳かもしれないし、70歳かもしれないのだから。

キリストにあって新しい生活を始めるとき、新しい信者はみことばの「乳」で養われなければならない。ここでいう「乳」とは、成長にとって最も基本となる聖書の概念のことであり、それらは容易に理解し実践できるものである。生まれたばかりの乳飲み子に誰も肉を与えるようなことはしないだろう。

もしあなたがイエスを信じたばかりの人であるならば、私からいくつかお勧めしたいことがある。

  1. まず、最も重要なことは、天の父に祈り、助けを求めることだ。そうすれば神は助けてくださる。
  2. 成熟したクリスチャンを探し、個人的な助けと導きを求めよう。その人と時間を過ごし、アドバイスをもらいながら、みことばを生活に適用しよう。
  3. 毎日一人になれる時間を見つけて、聖書を読もう。疑問があれば書き留めて、あなたを喜んで助けてくれる人と分かち合おう。
  4. 主との静かな時間を定期的に持つために、あらゆる努力をしよう。

これらは、あなたが今いるところにかつていたことのある、そして神があなたにいてほしいと願っている場所にいて欲しいと願う一人の年配者からの提案であることを覚えておいてほしい。

誰が私の畑で働きたい?(2025年1月17日投稿分)

ラニー・ウルフの My house is full 」は、何年も前に私の心をとらえた詩だ。

父の家には、平安と充足。食卓にはたくさんの食べ物があり、誰も追い帰されることはない。時が経つにつれ、歌声と笑い声が響きわたり……しかし、父が悲しげに叫ぶと、歌声は静まり返る。
『私の家は人であふれているのに、畑には誰もいない。今日だれが行って、私のために働いてくれるだろう?子どもたちはみな食卓の周りにはいるけれど、誰一人畑に行って働こうとはしない。誰一人畑に行って働こうとはしない。』

食卓を離れ、窓ガラス越しに外を見る。人で満ちたこの家の向こう側には、黄金色の穀物畑が広がっている。収穫までもうすぐなのに、収穫者はどこにいるのか?家の中で、子どもたちは父が悲しそうに言うのを聞く。

『私の家は人であふれているのに、畑には誰もいない。今日だれが行って、私のために働いてくれるだろう?子どもたちはみな食卓の周りにいるけれど、誰一人畑に行って働こうとはしない。誰一人畑に行って働こうとしない。』

「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(マタイの福音書93738

あなたもそして私も、イエスが昇天される直前に弟子たちに与えた使命と同じ使命を帯びている。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き18

私たちは天の父から受けたすべてのことの証人になるように、と言われている。そしてこの使命の順序を見落としてはいけない。上記のみことばは、イエスがエルサレムで語ったものである。

今あなたが住んでいる場所が あなたにとっての「エルサレム 」だ。ユダヤやサマリアに移住するとしても、あなたはまず「エルサレム」で働くだろう。ここで話しているのは働くという活動よりも、むしろ生産性のことであって、ここには大きな違いがある。もし「エルサレム」で実を結んでいないのなら、どうしてユダヤやサマリアで実を結ぶことを期待できるだろうか?先ほどの父の家は人で満ち活気があったのに、収穫の場には誰もいなかったことに注目してほしい。

弟子たちが当時の世界に福音を伝道する使命を与えられたように、私たちにも同じ使命が与えられている。

今日の教会は、勤勉で愛情深く忠実な家族で満ち溢れている。神は、その家族の一員として、あなたに「エルサレム」でボランティアとして働くことを望んでおられるかもしれない。そうすればあなたは、ユダヤとサマリアの働きのための準備が整えられるだろう。あなたにとってのエルサレムは、近所かもしれないし、職場かもしれないし、キャンパスかもしれないし、あなたの個人的影響を及ぼす範囲のことかもしれない。あなたはただ主に向かって「ここにおります。私をお遣わしください。」という言うだけだ。

神が語りかけていると感じたならば、両親や牧師に相談に行き、導きを求めることをお勧めたい。将来あなたが、収穫畑の働き人となりますように。

あなたが神とあなたの人生に対する神の意志を求めるとき、神はあなたを祝福してくださるだろう。

チャレンジ!挑戦状を叩きつける(Throw down the gauntlet)。(2025年1月10日投稿分)

gauntlet(ガントレット)とは、古代の戦士が手や手首に着用していた鎧の一部である。ガントレットを外し、敵の足元に投げつけるとは、戦いを挑むこと、あるいは戦いの挑戦を受け入れることを意味する。

マタイの福音書4章では、私たちの敵である悪魔が、主イエスに以下の三つのことをするようにと挑戦状を叩きつけている:(1)空腹を満たすために石をパンにすること(2)主の力を示すために奇跡を行うこと(3)父なる神と、神の人類救済計画に対する忠誠心を放棄すること。

イエスはこれらを行う力と権威を持っていただろうか?答えはイエスである。私たちが試されるように、イエスもまた試されたのだ。イエスは他のどのテストとも同様に、このテストにも合格された。しかし私たちはこれまでに何度もテストに失敗してきている。それでもイエスは私たちのことを理解し、赦し、愛してくださっているのだ。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル人への手紙415

イエスがサタンの挑戦に、どのように対抗したかに注目してほしい。主イエスは反論もせず議論もせず、ただ聖句を引用したのである。

あなたがサタンに誘惑されて、悪いと分かっていながら行動したり発言するとき、あなたはどう対応したらいいのだろうか?言い争ったり、弁解したり、言い訳をしたりしていないだろうか?これらのことは絶対にしてはいけない。サタンは欺瞞に満ちていて、私たちよりもはるかに賢いのだから。サタンと議論すれば、それこそが大問題である。

イエスは、サタンが仕掛けた罠を知っていたからこそ、この問題について議論することをしなかった。主は3つの挑戦に対して、ただ聖句を引用されただけだった。そしてサタンはただちにイエスから立ち去った(11節)。これこそが私たちが見習うべき手本である。

神の言葉は、私たちの霊的戦いにおいて敵を攻撃するための武器となる。へブル人への手紙412はこのことをよく伝えてくれている。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、間接と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」

聖句を暗記することは時間努力が必要だが、あなたが根気強くやれば、それは大きな利益をもたらすことになる。聖句暗記を成功させるためには、3つの鍵がある。それは、復習、復習、また復習だ。(Review, Review and Review.)聖句を5分から10分で暗記し、一語一句完璧に引用できる人でも、明日にはその聖句の数語しか覚えていないかもしれない。だから復習すること(3つのR)に集中しよう。

聖句を暗記するための優れたプログラムがいろいろとあるので、それを1つ選んで始めることをお勧めしたい。それからもう一つ、聖句を覚えるだけでは人生は変わらない(サタンがその例だ)。しかし暗記した聖句を適用すれば、それは可能となる。ヤコブの手紙122にはっきりと書かれている。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」

手始めに、詩篇1199節から11を暗記することから始めてみよう。

「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷いでないようにしてください。私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」

そして先ほど言った3つのR(復習、復習、また復習)を忘れないでほしい。

ぜひ聖句暗記にチャレンジしてほしい。決して後悔することはないはずだ。