あなたはあなた自身を知っている?神はご存知です!(2025年2月12日投稿分)

「主よ、あなたは私を探り、知っておられます。あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとって、あまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」(詩篇13916

この言葉は示唆に富み、完全なものだが、詩篇全体の序文に過ぎない。詩編は、神があなたと私について知っていることすべてを語っている。

この章の残りの部分を読んで、神が知っていることすべてを列挙する必要はない。しかし、その全文を読んで、自分が神の目から見てどれほど特別で貴重な存在であるかを実感してほしい。

神様はあなたのことをすべてご存知で、それでもあなたを愛しておられる!そう、神様はあなたのことを「すべて」ご存知なのだ。

あなたも私も、神の基準で行動することはできない。私たちは他人の言葉や行動を、裁き、非難し、批判し、それに応じて接する。しかし、神が私たちを愛してくださるように、私たちも互いに愛し合い、祈り合い、赦し合い、寄り添い、共に悩み苦しみ、互いに実りあるクリスチャンとして生きなければならない。

少し時間を取って、自分が「本当は」どんな人間なのか、じっくり考えてみよう。見逃してしまうこともあると思うので、すべての可能性を列挙するつもりは毛頭ない。しかし思い浮かぶものをいくつか挙げてみようと思う。:

すぐに他人を判断し、批判する、

他人の罪を赦すのが遅い、

約束したことを実行できないことが多い、

神に喜ばれない考えを持っている、

自分のものでないものをしばしば手に入れようとする傾向がある、

両親の名誉を傷つけてしまうことが多い。

もしあなたがこれらの考えや他の考えに思い当たる節があるとしても、すべてを失ったわけではないことを覚えておこう。神はあなたを愛し、あなたの人生に素晴らしい計画を持っておられる。それはあなた次第だ。あなたは行動を起こさなければならない。神の約束を思い出してほしい。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一19

またソロモン王はこのことについて、次のように語っている。「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言2813

あなたのリストを作り、すぐに実行に移そう。

神があなたに必要な変化を起こしてくださることを願おう。

あなたの宝物はどこにあるのか?(2025年2月12日投稿分)

もしあなたが正しい選択をすれば、宝物はいたるところにある。

「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイの福音書61921

ここでの肝心な質問は、あなたの宝物がどこにあるかではなく、あなたの心がどこにあるかということだ。聖書は「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」(エレミヤ書179と言っている。

だからこの件に関しては自分の心を信頼してはいけない。イエスの次の言葉を信じるべきだ。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイの福音書633

私には、この世で富と成功を得て、天国に宝を蓄えている友人がたくさんいる。彼らは皆、正しい決断をしたからだ。

聖書はこの問題に関して、天の父は自分の子供たちが与えられた祝福を享受することを望んでいることを明らかにしている。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」(テモテへの手紙代位ch61719

私からあなたへの祈りは、あなたが所有するすべては、一時的ではかないものであることを悟り、今持っているものを楽しみながら、自分の人生において神を第一とすること、何事につけそれらを神のために用いて天国に宝を蓄えてほしいということだ。

聖バレンタインよりも偉大なもの(2025年2月12日投稿分)

西暦269年、ローマ皇帝クラウディウス2世はローマにおけるあらゆる結婚と婚約を禁じた。カトリックの司祭バレンタインは、愛し合う男女を密かに結婚させていたため、西暦269年2月14日クラウディウス帝によって処刑された。

後にバレンタインは恋人たちの守護聖人聖バレンタインとなり、今日では多くの国で毎年2月14日にバレンタインデーが祝われている。バレンタインが死ぬ直前にしたことは、ある若い女性に「あなたのバレンタインより」と署名したメモを残したことだった。

これは愛に対する驚くべき証である。聖バレンタインは愛のために命を捧げた。しかし、数少ない恋人たちのためではなく、全人類のために命を捧げた方がもう一人いる。

聖バレンタインは、人々が愛するために命を捧げた。イエスは人々が生きるために命を捧げられた。

聖書にはこう書かれている。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書1513

そして聖書はまた次のことを教えている。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。」(ヨハネの手紙第一49

神の愛の驚くべき点は、私たちが愛されるに値するからではなく、神が愛したいから私たちを愛して下さるというところにある。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一410

そして神の愛はすべての国々に向けられている

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書316

今少しの間、時間をとって、あなたを愛し、あなたの天の父でいてくださる神に感謝を捧げよう。

あなたの人生にまだイエスを受け入れていないのであれば、今すぐに受け入れてほしい。それは信仰によるシンプルな祈りによってなされる。すなわち、あなたが新しい生き方を望んでいること、神の子イエスをあなたの人生に受け入れ、日々神に仕えることを望んでいることを神に伝えるということだ。

これがあなたにとって新しい始まりであるならば、新しく生まれ変わった人として、この新しい人生において導いてくれる信仰の先輩を探し求めてほしい。

イースターと福音メッセージ (2025年2月10日投稿分)

木々には葉がなく、草は茶色い。雪や氷が地面を覆い、木々や植物、農作物に深刻な被害をもたらしている地域もある。ホームレスの人々は夜通し震えながら、日の出と暖かい太陽を待ち望んでいる。これが冬だ。ほとんどの場合、冬は自然にとっても人間にとっても耐え忍ぶ時である。

しかし、今が冬ならば必ず春がやってくる。これが神の創造の法則だ!

雪や氷が解け、川や湖に清らかな水が供給される。花々が芽吹き、咲き乱れ、茶色い枯れ草に代わって緑の草が生え、色彩が戻ってくる。木々は実を結ぶプロセスを開始する。まず緑の葉、次に小さな花、そしてつぼみ、最後に神のタイミングで実がなる。このプロセス全体が、死者の中から蘇る復活の型なのだ。

一年のうちのこの時期に、世界中の人々が、世界の歴史上最も偉大で、最も重要な「復活」を記憶し、祝うのは偶然ではない。それは、主イエス・キリストの死からの復活である。

これが福音、すなわち神からの良い知らせである。

「、、、キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(コリント人への手紙第一15:3,4)

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二517

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント人への手紙第一1520

この記念日は、イースターバニーやイースターエッグが目的ではない。

神が御子イエスの復活を通して私たちに与えてくださった新しい命を喜ぶ時である。

勇気を出そう。冬が訪れれば、かならず春がやってくる!落胆しているなら、希望を持ち、救い主であり友であるイエスに目を向けよう。

肉体的問題?それとも霊的問題?(2025年2月8日投稿分)   

「人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊はだれが担えるだろう。」(箴言18:14)

人生で最も困難な部分は、肉体的なことではなく霊的な部分だろう。

現代医学は、心臓、肺、肝臓など、壊れた身体の一部を移植したり、修復したりすることができる。視力や聴力の低下は医療機器によって改善することができる。病気や感染症は抗生物質で抑えることができる。

しかし、孤独、落胆、心痛、失敗、フラストレーション、そして多忙な活動、そして一日の時間が足りない状況はどうだろう。打ちひしがれた心の救済はどうしたらいいのだろうか?

イエスは言った。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書112830

イエスが「……わたしのくびきを負って……」(29節)と言われたことに注目してほしい。くびきとは、二頭の家畜をつなぐための馬具のことである。一頭は大抵年上で、賢く、強い者であり、別の一頭はその年齢、知恵、力の恩恵を受けるのだ。

イエスはあなたの人生の一部となることを望んでおられる。くびきを共に負いたいと願っておられる。あらゆる問題を抱えた人生を生きるあなたに寄り添いたいと望んでおられる。あなたがイエスのくびきを負うとき、イエスはあなたに安らぎを与えてくださる。しかしイエスのくびきは、私たちが(自分の意思で)「選ぶ」ということを見落としてはならない。これは決して強制されるものではないのだ。

主は、あなたから困難な状況を取り除くと約束はしていないが、その状況において、あなたと共に歩むことを約束してくださっている。

聖書は言う。「主ご自身が、『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(へブル人への手紙1356

詩篇の作者は、この原則を次のように語っている。「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」(詩篇14514

あえて言うなら、現代では、壊れた肉体よりも壊れた精神に苦しむ人の方が多い。私たちは皆助けを必要としており、主は喜んで私たちの傍らに来て、共にくびきを負ってくださる。これは弱さの表れではなく、私たち全員が必要としている強さの表れなのだ。

最後に、この世の無益さと暗闇から目をそらし、イエスに目を向けることをお勧めしたい。これが最初のステップだ。イエスはあなたの人生に招かれるのを待っておられるし、あなたの力となり光となることを望んでおられる。第二のステップは、主があなたの人生に、共にくびきを負ってくれる真の仲間を与えてくださるように、主に祈ることだ。それが実現したら、ただ主に感謝すればよい。

最後に一言。共にくびきを負ってくれる仲間になるのには、年を取り過ぎていることも、若すぎることもない。年齢は関係ないのである。

手、そして各指が連携することの価値(2025年1月25日投稿分)

最近書いた記2025年6月9日)で、学習を成功させるためには5つのステップがあると述べた。私は手の指(小指、薬指、中指、人差し指、親指)を例に挙げてみた。そしてこの5本の指を、記憶術を成功させるためのステップに当てはめ、聖書の勉強と記憶のために応用するようにした。

記憶からの定着率は理論的には100%であり、聴覚にいたっては5~10%だった。この率は純粋に学問的なものであり、霊的意味合いはほとんどないのだが、私はそれが正確であると考える。

しかしクリスチャン生活におけるこれら 5 つのステップ(注:各指による聖書の勉強法)を考慮すると、聞くこと、読むこと、勉強すること、暗記すること、黙想すること、それぞれの指の価値は成功するためには等しく重要である。

何を読むかで人生は変わる。何を聞くかで人生は変わる。何を学ぶかで人生は変わる。何を記憶するかで人生は変わる。何を黙想するかでも、また人生は変わるのである。

人生を変えたい、あるいは人生を向上させたいのであれば、人生の非常に重要な領域について考えてみよう。そして、ヤコブの手紙125には、祝福を受けるのは聞く者ではなく、みことばを行う者であると書かれていることに注目しよう。

あなたのやるべきことを確認してほしい。

  1. 神のみことばを日常的に聞いているか?
  2. 聖書を忠実に読み、印をつける(線引きや書き込み)のための仕組みを持っているか?
  3. グループ以外の個人的な聖書の学びの時間を持っているか?(静寂の時)
  4. 暗記した聖句を忘れないようにするための、復習システムを持っているか?
  5. 一日を通して聖書の聖句を瞑想できるシステムはあるか?

これらの質問にすべて肯定的に答えられるのならば、あなたは実を結び、さらに実を結び、より多くの実を結ぶ道を歩んでいることになる。(ヨハネ15章)

この訓練における成功は、知ることではなく実行することにあることを覚えておこう。

祈りながら、各分野における自分の生活を評価し、調整を加え、前進し続けてほしい。

あなたの旅路に主の祝福がありますように!

生きるべきか、死ぬべきか (2025年1月25日投稿分)

これはおそらくウィリアム・シェイクスピアの著作の中で、最も有名で、最も引用される一節であり、『ハムレット』第3幕第1場に登場する。この言葉は、非常に重大な決断を迫られている人の苦悩を表している。彼は圧倒され、取り乱している。ハムレットが本質的に問うているのは、「戦うのか、それとも諦めるのか」ということだ。

聖書には、圧倒的に困難な苦闘に直面したもう一人の人、使徒パウロについて書かれている。

しかし、これらは政治的な問題ではなく、霊的な問題であり、彼にあきらめるという選択肢はなかった。ローマ人への手紙第7は、パウロが直面した苦悩、そして今日のすべての信者が直面する苦悩を反映している。それは「正しいことをしたいのに、間違ったことをしてしまう。」というものだ。

すべてのクリスチャンは間違ったことをする誘惑に駆られる。聖書が「すべての人は罪を犯した」と言うのは、まさにそのことを指しているのだ。

世の中では、人間には少なくとも3つのカテゴリーがあると言われている。すなわち、善良な人、悪い人、無関心な人である。しかし聖書では、失われた者と贖われた者の2つしかないと言っている。しかし、どちらのグループも、ハムレットとパウロが答えなければならなかった同じ問いに直面している。それは、立ち上がって戦うか、それとも逃げて隠れるかということだ。

この葛藤はローマ人への手紙7章19節に要約されている。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」もちろん、これは自由選択の原則である。このジレンマの一例が、創世記の中に出て来る。蛇がエバに近づいたとき、彼はエバに、神に背く機会を与えた。彼女には、正しいことをするか、それとも間違ったことをするか、という選択肢があった。私たちは皆、彼女がどのような選択をしたかを知っている。

ここでパウロが直面している状況にお気づきだろうか?彼は、あまりにも頻繁に正しくないことを選択してしまう自分を好ましいと思っていない。絶望の中で彼は、信者なら誰でも一度は尋ねたことがある問いかけをし、そしてすぐに答えを見いだす。

「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ人への手紙72425

もし私たちが自分自身の力で罪と闘おうとするならば、それは問題である。それは霊的敗北につながる。しかし、罪を犯してしまった時には、直ちにヨハネ第一1章9節の約束を思い出そう。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

次の約束も。「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言2813

サタンに惑わされてはならない。これは「生きるべきか、死ぬべきか」の問いかけではなく、「罪を告白して前進する 」決断である。

そうすれば、天の父はすべてを白紙に戻し、あなたは新たなスタートを切ることができる。私たちの神は偉大な神である!

神はどこにいるのか?(2025年1月23日投稿分)

これは何世紀にも渡って、あらゆる言語の人々によって問われてきた質問だ。

その答えは、聖書の中にはっきりと記されている。

「なぜ国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか』と。私たちの神は、天におられ、、、」(詩篇11523

そう、私たちの神は天におられる。しかし、神はこの世界にもおられ、神に信頼を置く人々の心の中にも生きておられる。イエスは言った。

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。、、、」(ヨハネの福音書141517

真理の御霊、すなわち聖霊は、永遠に、どこにいてもすべての信者とともにある。聖書はまた、「あなたを見捨てない。」(へブル人への手紙135と言っている。神はあなたを神の子どもの一人として訓練されるかもしれないが、決してあなたを見捨てたりはしない。

ここテキサス州アービングにおいて、神は私たちと共におられ、私たちは神に祈ることができる。たとえ高度3万フィートの飛行機に乗っていても、神は私たちと共におられ、私たちは神に祈ることができる。たとえ故郷から6000マイルも離れた場所にいても、神は私たちと共におられ、私たちは神に祈ることができる。神は常に、私たちがどこにいるのか、私たちに何が必要なのかをご存知である。

神は、ご自分の子どもたちにとって遠く離れた、手の届かない場所に住んでいるわけではない。神はご自分の民と共に生き、彼らの人生に深く関わりたいと願っておられる。

私たちは、私たちを助けることのできない偶像に仕えたり、崇拝したりはしない。聖書は、偶像について次のように述べている。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、、、、」(詩篇11546

天の父は私たちを見て、私たちの声に耳を傾け、私たちの願いを聞いてくださる。

私たちは聖書に啓示された生ける神に仕え、礼拝する。だから今日、心を決めて神を求め、あなたの人生における神の導きを求めよう。

神はどこにいるのか?神はおられる!神の子たちがいるところならどこにでも!

どれくらい遠い?(2025年1月22日投稿分)

私の好きな詩篇の一つに詩篇103篇がある。詩編全体は、神がその子どもたちに与えた多くの祝福について解説してくれている。詩編103篇にある多くの節の中から、今朝私は特に12節に感銘を受けた。

「東が西から遠くはなれているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

私からあなたへの質問は、「東と西はどれくらい離れているか?」というものだ。

何年も前に、私は引退したパイロットからある違いについて説明を聞いたことがある。

彼はまず南北と東西の違いについて説明し始めた。彼は、非常に大きな違いが一つあることを話してくれた。あなたがダラスから北に向かって飛行すると北極点に到達するが、北極点上空を飛行をし続けると、今度は南に向かうことになる。さらに南下を続けると南極点に到達し、南極点を越えて進んでいくと、今度はダラスに向かって北上することになる。

対照的に、もし私がコンパスを東に設定すれば、私は東に進むことになる。そしてコンパスを変えない限り、私は東に進み続けることになる。

私のコンパスが東に設定されている限り、私は決して西に行くことはないのだ。

聖書には「東が西から遠くはなれているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」と書かれている。

これは単なる意味論の問題なのだろうか?それとも北と南、東と西には違いがあるのだろうか?神の摂理と適用においては、答えは「YES」である。

北から南は循環であり、東から西は直線である。循環というのは、進路を変えなければ過去が繰り返されるという意味であり、直線というのは、過去は私の後ろにあり、未来は私の前にあるという意味である。

人は信仰によってイエスを個人的な救い主として受け入れると、その人は神の家族に生まれ、それを変えることは誰にもできない。一直線の道が始まり、それが永遠に続いていく。新しいクリスチャンの人生が始まるのである。聖書は、イエスへの信仰によって神の家族に入った人は、決して神の家族から引き離されることはないと明確に教えている。神のご計画の中に「回れ右」は決してないのである。

聖書には、この結論を裏付ける多くの節がある。そのうちの二つを紹介しよう。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネの福音書524

「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネの福音書102730

私たちが天の父とともに未来に向かって歩み続けるとき、私たちは罪から解放されているのだろうか?答えはもちろん「NO」だ。私たちは、罪に対する永遠の裁きからは解放されているが、罪による肉体的な結果からは解放されてはいない。これまでに生きた人の中で、完全に罪から解放されていたのはただお一人、私たちの尊いイエスだけである。私たちが罪を犯してしまう時、そして実際必ず犯してしまうのだが、私たちはありのままに神に罪を犯したことを告白することだ。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一19

「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言2813

では、どのくらい遠いのだろうか?東から西までの距離と同じくらい遠いのだ。

あなたへの質問はいたって簡単だ。あなたはどの方向へ行くのだろうか?あなたの答えによって、あなたが永遠に過ごす場所が決定する。

あなたは誰の目から見て良い人か?(2025年1月22日投稿分 )

良いとは、どの程度良ければいいのだろうか?ある若くて非常に熱心なクリスチャンの友人は、クリスチャンでない彼女の夫が、いろいろな意味において彼女よりずっと良い人であると話してくれた。

彼女は、子どもや夫に対してよく怒ってしまうし、イライラしてしまうことがあるらしい。しかし彼女の夫はいつも状況を把握して、めったに怒ったりイライラすることはないという。彼女は夫が自分よりもはるかに良い人間であると思っていて「彼は本当に良い人だから、神など必要ないのかもしれない。」と私に言った。

聖書にはこう書かれている。「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(サムエル記第一167)

すべての人が神を知る必要がある。なぜならばすべての人が心の問題を抱えているからだ。その問題とは罪であり、最も基本的な罪は、神を信じず、神からの賜物である永遠の命を受け取らないことである。

イエスは弟子たちに、聖霊は来られると言われた。そして「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネの福音書1689)

人にとっての本当の問題とは、怒りや焦り、その他の罪のことではない。問題は、不信仰の心にある。

かつて、非常に道徳的で、教養があり、信心深い男が、神を知りたいとイエスに相談したことがある。イエスはその男に言われた。「あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネの福音書37)

イエスはこの男の外見的な罪には触れずに、心の問題に真っ向から向き合われた。心は変えられなければならないのだ。

友人の夫は、彼女より良い人かもしれないが、神は心をご覧になる。彼女はイエスを信じているのだから、いつの日か主の御前に迎え入れられるのである。

彼女は神に喜んでもらえるように生き、夫のために祈り、聖霊が彼の不信仰を悟らせてくださることを忍耐強く待つ人生を歩むべきだろう。

では、良いとはどの程度良ければいいのか?イエスは言われた。「良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」(ルカの福音書18:19)

天の父が信者たちを見る時、神は御子の義をご覧になる。

神があなたを見る時、神はあなたの中に誰を見るだろう?