神は存在するのか?(2024年12月2日投稿分)

何世紀にもわたって、あらゆる国籍と文化を持つ人々に問われてきた二つの質問がある:

1)神は存在するのか?

2)神を知ることはできるのか?

聖書は、「いまだかつて神を見た者はいない。」(ヨハネ1:18)、「神は霊である」(ヨハネ4:24)と教えている。もし誰も神を見たことがなく、神が霊であるなら、私たちはどうやって神の存在を知り、神を知ることができるのだろうか?

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。話しもせず、語りもせず、その声も聞こえない。しかし、その光芒は全地に、そのことばは世界の果てまで届いた。神は天に、太陽のために幕屋を設けられた。」(詩篇19:1-4)。

私たちを取り巻く世界は、日々私たちに神が存在することを教えてくれている。

高価なスイス製の時計を見て、その時計に製作者がいることを否定する人はいないだろう。むしろ、誰かがどこかでその時計を設計し組み立てたことに同意することと思う。

また聖書にはこう書かれている 「御子(イエス)は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、、、、、、、、、、、、万物も御子によって造られ、御子のため造られました。」(コロサイ1:15,16)

神が存在すること、神を知ることができることを、私たちはどうやって知ることができるのだろうか

1. 被造物がそれを証明している

2. 神は、イエスという人となられた

しかし、私たちは信仰によってのみ、神の存在を知り、神を知ることができる

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」 (ヘブル11:6 )

 信仰によって、神とその御子イエス・キリストに信頼を置くとき、その信仰は私たちの心の中で確かなものとなり、神がおられること、神は私たちを愛しておられること、そして私たちが神を知ることができることに疑いを持つことはなくなる。

今日、信仰によって神を求めるあなたに、神の祝福がありますように!

神が沈黙する時 (2024年12月12日投稿分)

なぜ神は沈黙するのか?

この疑問は、信仰者なら誰もが一度は抱くことだろう。その答えはなんであろうか?

この問いに答える方法はたくさんあるかもしれないが、クリスチャンにとっての方法は一つしかない。天の父に立ち返り、あなたが直面している闇について問いかけてみることだ。そうすれば神は、天の父としてあなたに応答してくれるだろう。

主がご存知ないこと、そしてあなたのためにならないことは、何事も決してあなたの人生に入り込むことは許されてないので安心してほしい。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)

困難に直面したとき、私たちが最初にする反応は、「どうして私が?」「いったいいつまで続くのだろうか?」という問いかけである。詩篇13:1ー2において、ダビデ王は同じ問いを投げかけている。「主よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで、御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで、私は自分のたましいのうちで、思い悩まなければならないのでしょう。私の心には、一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。」

第1節では著者が、自分を助けることのできるお方である神に自分の願いを直接伝えていることに注目してほしい。天の父だけが、私たちに正しい方向を示すことが可能である。何か問題があったとき、あなたは誰に相談するだろうか?

第1節、2節でダビデは「いつまで」という表現を4回も用いて、神に対する焦りを露わにしている。

最初の「いつまでですか。あなたは私をお忘れになるのですか」には答えが必要である。

「しかし、シオンは行った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた』と。『女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ私たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」(イザヤ書49:14‐16)

この質問に対する答えは簡単である。天の父はあなたを忘れたことはないし、これからも決して忘れることはないということだ。

信仰者として、人生の中でこのような多くの疑問に直面するが、私たちは詩編の作者のように行動し、口にすべきである。「私はあなたの恵みに依り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(詩篇13:5‐6)

どんな状況にあっても、私たちは主に信頼し、喜び、歌おう!

平和:共通の目標 (2024年11月29日投稿分)

平和:共通の目標

投稿日:2024年11月29日

おそらく今日、人々の最大の共通目標は平和であろう。

辞書によると、平和とは、ある人、ある国、ある集団、あるいは世界における、戦争がない正常な状態であると定義されている。聖書にも平和の定義がある。

人々が平和に生きることを選べば、今日の世界の苦しみのほとんどは終わるだろう。第一次世界大戦が終結した1919年、世界は平和を見出し、国際連盟という組織を設立した。しかし、これは永続的な平和を生み出すことはできなかった。第二次世界大戦後の1945年にも、国際連合という組織が設立された。これも世界平和を生み出すことはできなかった。そして今日、世界にはまだ平和がない。

聖書は2種類の平和を教えている。

第一に、人々のグループの間に存在する平和である。

第二に、人の心の中に存在する平和であり、この平和は世界が与える外的平和には影響されない。

聖書は、平和というテーマと、それを得る方法について非常に明確に語っている。

イエスは2種類の平和について教えられた:

(1)「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)。

イエスは平和を与え、世も平和を与えるが、世が与える平和は一過性のもので、永続的なものではなく、簡単に失われてしまう。

イエスが与える平和は、信仰による神との恒久的な関係である:

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)。神との平和は、決して失うことのないものである。

「神との平和」に続き、私たちは「神の平和」をも得ることができる:

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4: 6,7)

不信仰を悔い改め、信仰によって神に立ち返ったすべての人は、神との平和を持つことができ、それを失うことはないのである。

「神との平和」は、私たちがイエスを救い主として信頼するときに永遠に確立され、「神の平和」は、私たち信者が自分の人生における罪を認め、悔い改めるときに生じる。

良き市民となり、この世の平和のために働くだけでなく、自分の人生を吟味し、神との間に平和があるかどうかよく確かめることをお勧めする。今日、神を信頼し、あなたが直面するあらゆる困難な状況において、悔い改め、従順、そして感謝の祈りを通して神の平和を求めなさい。

今日も、そしてこれからも、神のために生きようとするあなたに祝福がありますように。