なぜクリスチャンは喜ぶべきなのか?

あなたはクリスチャンであるけれど、仕事もなく、支払い期限が過ぎた請求書や、乗り越えられないと思われる家族問題を抱えているかもしれない。

これらは誰もが直面する現実の問題であるが、いつかは解決しなければならない。このような現実的な問題の渦中にあって、あなたには試練や問題に耐えうる礎があることを思い出してほしい。これらの問題はあなたにだけ起こる問題ではないことを理解した上で、あなたには今日も喜ぶべき理由があることをお伝えしたい。

聖書は「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ人への手紙4:4)と言っている。

苦しみの中にいる時に、なぜ私たちは主にあって喜ばなければならないのであろうか?答えを得るに値する質問だ。困難の中にあっても喜ぶべき理由を3つ挙げよう。

第一に、私たちがこの世で信者としてどんな苦しみに遭おうとも、それはいつか天の父にお会いするときに、天の父が私たちに与えてくださる報いとは比べものにならないことを知っているからである。聖書は、一時の軽い苦難に続く、永遠の栄光の重さについて教えている(コリント人への手紙第二41617)。

聖書はまた次のように書いている。「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への手紙第一518)このみことばでは、すべてのことに対して(for)感謝するのではなく、すべてのことにおいて(in)感謝する、と書かれていることに注目してほしい。この二つの言葉には、天と地ほどの違いがある。

主において喜ぶ第二の理由は、主が他のどんな平安ともまったく異なる心の平安を与えてくださるからだ。イエスは言われた:「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネの福音書1427

この世が与える平和には、経済的な安定、健康、仕事上の成功、地域社会での地位など、さまざまなものがある。これらはすべて一時的なものであり、明日には消えてしまうかもしれない。真の永続的な平和は、世が与えてくれるのではなく、主が私たちに与えてくださるのである。

最後に、私たちは主にあって喜ばなければならない。父が子を思うように、主は私たちを心配してくださると約束されているからだ。

「父がその子をあわれむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇10313

イエスは地上を去って天に帰る前に、弟子たちに言われた: 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。」(ヨハネの福音書1418

そしてまた、このようにも約束されている。: 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。{ヘブル人への手紙13:5}

あなたのニーズが何であれ、私は主を求めることをお勧めしたい。主があなたにとって個人的な友であり救い主であると知っているのであれば、今日主にあって喜ぼう!

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