「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネの福音書12:24‐25)
種は植えられない限り、実を結ぶことはない。植えられることもなく、変化することも許されないのであれば、創造された目的を達成することは永遠にない。
もしクリスチャンが己に死ぬことを望まなければ、ヨハネの福音書15章に書かれているような実を結ぶことは決してない。第15章における信者の実とは新しく生まれた別の信者を意味する。そしてその新しく生まれた信者もまた別の信者という実を結ぶのである。枝(信者)はぶどうの木(イエス)からいのちを得て、その結果、実を結ぶことになる。
イエスは言われた。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネの福音書15:5)(ここで言う実は、ガラテヤ人への手紙5:22‐23に書かれている「御霊の実」に加えられる)
もし私たちがヨハネ15章で語られている実(弟子)を生み出さずに、その実が次の実を産み出さないのならば、ガラテヤ5章に書かれている「御霊の実」を生かさずにそこにとどまり続ける信者ということだ。
イエスが弟子たちに語った最後の言葉は、このことを強調していた。イエスは言われた。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:18‐20)
今日の教会は、ガラテヤ5章の御霊の実を生かさずとどまり続ける信者で構成されており、ヨハネ15章の多くの実を結ぶ信者はほとんどいない。
あなたが己を捨て、神があなたをどこに置かれても、弟子であること、そして弟子を育てるというあなたの使命を追い求めるとき、神があなたを祝福してくださいますように。