定義によれば、懸念/気にかける(concern)と心配(worry)にはわずかな違いがある。
ひとたびconcernが手に負えなくなれば、それはworryとなる。両者には天と地ほどの差がある。
定義上、懸念/気にかける(concern)とは、問題を発見して当事者に答えを探させることから、ある意味有用なものである。その一方で、心配(worry)は問題の存在に気付きながら解決策を見出すことができない。クリスチャンであろうとなかろうと、すべての人はこの二つを見分けなければならない。そしてもし心配がその人を支配しているのならば、その人は問題を抱えていることになる。
詩篇37篇の作者は、どうやって心配に対処すべきか教えてくれている。37篇で心配を意味する単語は「fret」であり(詩篇37:1,7,8)、これは不満を持つ、腐食を引き起こす、何かをかじる、という意味である。(*注日本語聖書では、口語訳=心を悩ます/新改訳2017=腹を立てる)
作者は言う。この世には(1)してはならないことがあり、(2)しなければならないことがあると。
第一に、私たちは悪いことをする人に懸念を抱いたり、心配したりしてはいけない。そして、彼らが成功し、繁栄しているとき、私たちは彼らを妬んではいけない。それは神の仕事であり、私たちの仕事ではない。神はご自分のやるべきことをしっかりとやってくださる。「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」口語訳聖書(詩篇37:1‐2)
第二に、想定外の問題に直面したとき、主に信頼することである。「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」口語訳聖書(詩篇37:3‐4)
クリスチャンは、人生におけるネガティブな出来事についても常に気にかけるべきではあるが、それらについて心配するのであれば、それはすなわち祈りが十分に捧げられていないことを示している。