これはおそらくウィリアム・シェイクスピアの著作の中で、最も有名で、最も引用される一節であり、『ハムレット』第3幕第1場に登場する。この言葉は、非常に重大な決断を迫られている人の苦悩を表している。彼は圧倒され、取り乱している。ハムレットが本質的に問うているのは、「戦うのか、それとも諦めるのか」ということだ。
聖書には、圧倒的に困難な苦闘に直面したもう一人の人、使徒パウロについて書かれている。
しかし、これらは政治的な問題ではなく、霊的な問題であり、彼にあきらめるという選択肢はなかった。ローマ人への手紙第7章は、パウロが直面した苦悩、そして今日のすべての信者が直面する苦悩を反映している。それは「正しいことをしたいのに、間違ったことをしてしまう。」というものだ。
すべてのクリスチャンは間違ったことをする誘惑に駆られる。聖書が「すべての人は罪を犯した」と言うのは、まさにそのことを指しているのだ。
世の中では、人間には少なくとも3つのカテゴリーがあると言われている。すなわち、善良な人、悪い人、無関心な人である。しかし聖書では、失われた者と贖われた者の2つしかないと言っている。しかし、どちらのグループも、ハムレットとパウロが答えなければならなかった同じ問いに直面している。それは、立ち上がって戦うか、それとも逃げて隠れるかということだ。
この葛藤はローマ人への手紙7章19節に要約されている。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」もちろん、これは自由選択の原則である。このジレンマの一例が、創世記の中に出て来る。蛇がエバに近づいたとき、彼はエバに、神に背く機会を与えた。彼女には、正しいことをするか、それとも間違ったことをするか、という選択肢があった。私たちは皆、彼女がどのような選択をしたかを知っている。
ここでパウロが直面している状況にお気づきだろうか?彼は、あまりにも頻繁に正しくないことを選択してしまう自分を好ましいと思っていない。絶望の中で彼は、信者なら誰でも一度は尋ねたことがある問いかけをし、そしてすぐに答えを見いだす。
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ人への手紙7:24‐25)
もし私たちが自分自身の力で罪と闘おうとするならば、それは問題である。それは霊的敗北につながる。しかし、罪を犯してしまった時には、直ちにヨハネ第一1章9節の約束を思い出そう。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
次の約束も。「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
サタンに惑わされてはならない。これは「生きるべきか、死ぬべきか」の問いかけではなく、「罪を告白して前進する 」決断である。
そうすれば、天の父はすべてを白紙に戻し、あなたは新たなスタートを切ることができる。私たちの神は偉大な神である!