義と不義 (2024年12月27日投稿)

聖書の中で、角は楽器として、また注意を引く道具として使われている。動物界では、角は武器として使われており、力、強さの象徴である。詩篇75篇では、著者は2つの目的を持つ2つの角について語っている。不義の角と義の角である。

不義の角は、愚か者、愚かさ、悪者どもの象徴として描かれている(詩篇75:4)。またうなじを堅くする傲慢さや横柄さ、また「私のやり方が気に入らないなら結構だ」という態度を示している。

ここで描かれている不義の角は、個人が持つ特性や能力は個人的努力による結果ではなく、むしろ賜物の行使や創造主である神によって与えられた能力であることに全く気付いていない。現代に生きるほとんどの人は、この最も基本的な真理に気付いていない。彼らは聖書にある言葉「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くし、ある者を高く上げられる。」(詩篇7567さえも拒絶する。

不義の角は、自分勝手で利己的と表現するのがぴったりだ。しかし、義の角は、サムエル記上222-3でダビデが大変うまく表現している。

「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。」

この原則は箴言25:67にもはっきりと書かれている。

「王の前で横柄にふるまってはならない。身分の高い人のいる所に立ってはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、『ここに上って来なさい』と言われるほうがよいからだ。あなたがその目でみたことを」

ここで語られている原則はシンプルだ。自分の角を吹き鳴らすなということである。もし吹き鳴らすことが必要でかつ適切だと思うのであれば、他の人に任せればいい。あなたはひたすら働き、信頼し、奉仕し続けること。結果がどうなろうと気にしないことだ。

質問:高く上げることが南からも、東からも、西からも来ないのならば、それはいったいどこから来るか?

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