「人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊はだれが担えるだろう。」(箴言18:14)
人生で最も困難な部分は、肉体的なことではなく霊的な部分だろう。
現代医学は、心臓、肺、肝臓など、壊れた身体の一部を移植したり、修復したりすることができる。視力や聴力の低下は医療機器によって改善することができる。病気や感染症は抗生物質で抑えることができる。
しかし、孤独、落胆、心痛、失敗、フラストレーション、そして多忙な活動、そして一日の時間が足りない状況はどうだろう。打ちひしがれた心の救済はどうしたらいいのだろうか?
イエスは言った。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11:28‐30)
イエスが「……わたしのくびきを負って……」(29節)と言われたことに注目してほしい。くびきとは、二頭の家畜をつなぐための馬具のことである。一頭は大抵年上で、賢く、強い者であり、別の一頭はその年齢、知恵、力の恩恵を受けるのだ。
イエスはあなたの人生の一部となることを望んでおられる。くびきを共に負いたいと願っておられる。あらゆる問題を抱えた人生を生きるあなたに寄り添いたいと望んでおられる。あなたがイエスのくびきを負うとき、イエスはあなたに安らぎを与えてくださる。しかしイエスのくびきは、私たちが(自分の意思で)「選ぶ」ということを見落としてはならない。これは決して強制されるものではないのだ。
主は、あなたから困難な状況を取り除くと約束はしていないが、その状況において、あなたと共に歩むことを約束してくださっている。
聖書は言う。「主ご自身が、『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(へブル人への手紙13:5,6)
詩篇の作者は、この原則を次のように語っている。「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」(詩篇145:14)
あえて言うなら、現代では、壊れた肉体よりも壊れた精神に苦しむ人の方が多い。私たちは皆助けを必要としており、主は喜んで私たちの傍らに来て、共にくびきを負ってくださる。これは弱さの表れではなく、私たち全員が必要としている強さの表れなのだ。
最後に、この世の無益さと暗闇から目をそらし、イエスに目を向けることをお勧めしたい。これが最初のステップだ。イエスはあなたの人生に招かれるのを待っておられるし、あなたの力となり光となることを望んでおられる。第二のステップは、主があなたの人生に、共にくびきを負ってくれる真の仲間を与えてくださるように、主に祈ることだ。それが実現したら、ただ主に感謝すればよい。
最後に一言。共にくびきを負ってくれる仲間になるのには、年を取り過ぎていることも、若すぎることもない。年齢は関係ないのである。