誰が私の畑で働きたい?(2025年1月17日投稿)

ラニー・ウルフの My house is full 」は、何年も前に私の心をとらえた詩だ。

父の家には、平安と充足。食卓にはたくさんの食べ物があり、誰も追い帰されることはない。時が経つにつれ、歌声と笑い声が響きわたり……しかし、父が悲しげに叫ぶと、歌声は静まり返る。
『私の家は人であふれているのに、畑には誰もいない。今日だれが行って、私のために働いてくれるだろう?子どもたちはみな食卓の周りにはいるけれど、誰一人畑に行って働こうとはしない。誰一人畑に行って働こうとはしない。』

食卓を離れ、窓ガラス越しに外を見る。人で満ちたこの家の向こう側には、黄金色の穀物畑が広がっている。収穫までもうすぐなのに、収穫者はどこにいるのか?家の中で、子どもたちは父が悲しそうに言うのを聞く。

『私の家は人であふれているのに、畑には誰もいない。今日だれが行って、私のために働いてくれるだろう?子どもたちはみな食卓の周りにいるけれど、誰一人畑に行って働こうとはしない。誰一人畑に行って働こうとしない。』

「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(マタイの福音書93738

あなたもそして私も、イエスが昇天される直前に弟子たちに与えた使命と同じ使命を帯びている。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き18

私たちは天の父から受けたすべてのことの証人になるように、と言われている。そしてこの使命の順序を見落としてはいけない。上記のみことばは、イエスがエルサレムで語ったものである。

今あなたが住んでいる場所が あなたにとっての「エルサレム 」だ。ユダヤやサマリアに移住するとしても、あなたはまず「エルサレム」で働くだろう。ここで話しているのは働くという活動よりも、むしろ生産性のことであって、ここには大きな違いがある。もし「エルサレム」で実を結んでいないのなら、どうしてユダヤやサマリアで実を結ぶことを期待できるだろうか?先ほどの父の家は人で満ち活気があったのに、収穫の場には誰もいなかったことに注目してほしい。

弟子たちが当時の世界に福音を伝道する使命を与えられたように、私たちにも同じ使命が与えられている。

今日の教会は、勤勉で愛情深く忠実な家族で満ち溢れている。神は、その家族の一員として、あなたに「エルサレム」でボランティアとして働くことを望んでおられるかもしれない。そうすればあなたは、ユダヤとサマリアの働きのための準備が整えられるだろう。あなたにとってのエルサレムは、近所かもしれないし、職場かもしれないし、キャンパスかもしれないし、あなたの個人的影響を及ぼす範囲のことかもしれない。あなたはただ主に向かって「ここにおります。私をお遣わしください。」という言うだけだ。

神が語りかけていると感じたならば、両親や牧師に相談に行き、導きを求めることをお勧めたい。将来あなたが、収穫畑の働き人となりますように。

あなたが神とあなたの人生に対する神の意志を求めるとき、神はあなたを祝福してくださるだろう。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *