“人間が神を求めること”というのは、「宗教 」についての良い定義だと思う。多くの点で、これはキリスト教にも当てはまる。
聖書にはこう書かれている:
「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」(箴言8:17)
「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ書29:13)
「それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」(使徒の働き17:27)
聖書は、人々が偶像から離れ、生ける神を求めるべきだと教えている。人が生ける神を求め、その神に立ち返るとき、神はそこにおられ、その人を迎え入れようと手を差し伸べてくださっていることが分かるだろう。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)
「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ人への手紙4:4)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)
人は、心の虚しさを満たすため、苦しみの時に力を得るため、そして絶望的な状況に希望を与えるため、神を求めることがよくある。
生ける神は、イエス・キリストを通して、これらすべてのことを満たし、さらにそれ以上のことを行なってくださる。(1) 心に平安を与え、(2) 力と勇気を与え、(3) 希望のないところに希望を与えてくださる。
神はあなたの天の父となることを望んでおられるが、それはあなたが信仰に立ち返り、祈りによって神をあなたの人生に迎え入れることによってのみ可能となる。
神は約束を守るお方であり、その方が「神を求める者は神を見つけるだろう」と約束されている。
何かお手伝いできることがあれば、連絡してほしい。神様はあなたを心から愛しておられます!