どれくらい遠い?(2025年1月22日投稿分)

私の好きな詩篇の一つに詩篇103篇がある。詩編全体は、神がその子どもたちに与えた多くの祝福について解説してくれている。詩編103篇にある多くの節の中から、今朝私は特に12節に感銘を受けた。

「東が西から遠くはなれているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

私からあなたへの質問は、「東と西はどれくらい離れているか?」というものだ。

何年も前に、私は引退したパイロットからある違いについて説明を聞いたことがある。

彼はまず南北と東西の違いについて説明し始めた。彼は、非常に大きな違いが一つあることを話してくれた。あなたがダラスから北に向かって飛行すると北極点に到達するが、北極点上空を飛行をし続けると、今度は南に向かうことになる。さらに南下を続けると南極点に到達し、南極点を越えて進んでいくと、今度はダラスに向かって北上することになる。

対照的に、もし私がコンパスを東に設定すれば、私は東に進むことになる。そしてコンパスを変えない限り、私は東に進み続けることになる。

私のコンパスが東に設定されている限り、私は決して西に行くことはないのだ。

聖書には「東が西から遠くはなれているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」と書かれている。

これは単なる意味論の問題なのだろうか?それとも北と南、東と西には違いがあるのだろうか?神の摂理と適用においては、答えは「YES」である。

北から南は循環であり、東から西は直線である。循環というのは、進路を変えなければ過去が繰り返されるという意味であり、直線というのは、過去は私の後ろにあり、未来は私の前にあるという意味である。

人は信仰によってイエスを個人的な救い主として受け入れると、その人は神の家族に生まれ、それを変えることは誰にもできない。一直線の道が始まり、それが永遠に続いていく。新しいクリスチャンの人生が始まるのである。聖書は、イエスへの信仰によって神の家族に入った人は、決して神の家族から引き離されることはないと明確に教えている。神のご計画の中に「回れ右」は決してないのである。

聖書には、この結論を裏付ける多くの節がある。そのうちの二つを紹介しよう。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネの福音書524

「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネの福音書102730

私たちが天の父とともに未来に向かって歩み続けるとき、私たちは罪から解放されているのだろうか?答えはもちろん「NO」だ。私たちは、罪に対する永遠の裁きからは解放されているが、罪による肉体的な結果からは解放されてはいない。これまでに生きた人の中で、完全に罪から解放されていたのはただお一人、私たちの尊いイエスだけである。私たちが罪を犯してしまう時、そして実際必ず犯してしまうのだが、私たちはありのままに神に罪を犯したことを告白することだ。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一19

「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言2813

では、どのくらい遠いのだろうか?東から西までの距離と同じくらい遠いのだ。

あなたへの質問はいたって簡単だ。あなたはどの方向へ行くのだろうか?あなたの答えによって、あなたが永遠に過ごす場所が決定する。

あなたは誰の目から見て良い人か?(2025年1月22日投稿分 )

良いとは、どの程度良ければいいのだろうか?ある若くて非常に熱心なクリスチャンの友人は、クリスチャンでない彼女の夫が、いろいろな意味において彼女よりずっと良い人であると話してくれた。

彼女は、子どもや夫に対してよく怒ってしまうし、イライラしてしまうことがあるらしい。しかし彼女の夫はいつも状況を把握して、めったに怒ったりイライラすることはないという。彼女は夫が自分よりもはるかに良い人間であると思っていて「彼は本当に良い人だから、神など必要ないのかもしれない。」と私に言った。

聖書にはこう書かれている。「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(サムエル記第一167)

すべての人が神を知る必要がある。なぜならばすべての人が心の問題を抱えているからだ。その問題とは罪であり、最も基本的な罪は、神を信じず、神からの賜物である永遠の命を受け取らないことである。

イエスは弟子たちに、聖霊は来られると言われた。そして「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネの福音書1689)

人にとっての本当の問題とは、怒りや焦り、その他の罪のことではない。問題は、不信仰の心にある。

かつて、非常に道徳的で、教養があり、信心深い男が、神を知りたいとイエスに相談したことがある。イエスはその男に言われた。「あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネの福音書37)

イエスはこの男の外見的な罪には触れずに、心の問題に真っ向から向き合われた。心は変えられなければならないのだ。

友人の夫は、彼女より良い人かもしれないが、神は心をご覧になる。彼女はイエスを信じているのだから、いつの日か主の御前に迎え入れられるのである。

彼女は神に喜んでもらえるように生き、夫のために祈り、聖霊が彼の不信仰を悟らせてくださることを忍耐強く待つ人生を歩むべきだろう。

では、良いとはどの程度良ければいいのか?イエスは言われた。「良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」(ルカの福音書18:19)

天の父が信者たちを見る時、神は御子の義をご覧になる。

神があなたを見る時、神はあなたの中に誰を見るだろう?

PEACE: WITH GOD and OF GOD

Peace with God and peace of God. Is there a difference and, and if so, what is the difference?

Peace with God simply means that we have been made right with God through faith Jesus. We have been restored to friendship with Him. He is no longer angry because of our sins.

” Therefore, since we have been made right in God’s sight by faith, we have peace with God because of what Jesus Christ our Lord has done for us ” (Romans 5: 1).

This right standing with God comes about when we put our trust in Jesus and are born again into God’s family. ” But to all who believe in Him (Jesus) and accepted Him (Jesus), He gave the right to become children of God. They are reborn: This is not a physical birth resulting from human passion or plan– this rebirth comes from God” (John 1:12, 13 NLB).

And this rebirth gives us peace with God.

The peace of God is available only to those who have established this peace with God. The peace of God comes when we turn from worry and sometimes sin to Jesus and are restored to fellowship with our Heavenly Father.

Don’t worry about anything; instead, pray about everything. Tell God what you need and thank Him for what He has done. If you do this, you will experience the peace of God which is far more wonderful than the human mind can understand” (Philippians 4: 6,7 NLB).

A person may only experience the peace of God after peace with God has been established by faith in Jesus Christ.

The sequence is this:

First, we have peace with God by faith in Jesus.

Second, we have the peace of God as we live a life that pleases Him.

My prayer for you is that you now possess peace with God and that you also enjoy daily the peace of God.

Please contact me or your Pastor if you want more information about the peace of God and peace with God.

If you do not have this peace, please pray this prayer: ” God, I want the peace that only you can give. Please send someone to help me to understand more.”

手とその機能について (2025年1月22日投稿分)

これは何年も前に教えてもらったものだが、その重要性が衰えたことは一度もない。これは実り豊かなクリスチャン生活を送る鍵である。

次のことをやってみてほしい。平らな面に手を置いて、5本の指を見る。もし何らかの理由でこの中の1本失うとしたら、あなたはどれを選ぶだろうか?輪ゴムを使って、一時的にそれぞれの指を使えなくして、指の機能的価値をみていきたいと思う。

第一指:小指は、指輪をはめる以外、重要度が最も低い指であるように思える。小指を使わずに他の4本の指で何かを拾ってみてほしい。残りの4本の指でだけでも、それなりに機能するはずだ。しかし、小指を使わずに両手を握りしめてみてほしい。小指がないと、こぶしがかなり弱く見える。

第二指:結婚する時には、愛と献身のシンボルとして、この指に指輪をつけるのが伝統である。だから通常はring finger と呼ばれる。薬指を使えないようにして、他の4本の指だけを使うと、手がどのように機能するか試してみてほしい。手の活動範囲は限られてしまい、それなりには使えるが限定的となる。

第三指:中指は他の4本の指を安定させる役割を担っているようで、これは非常に重要なことである。手は、他の4本の指だけで機能しているが、それは著しく制限されてしまう。またこの指は5本の指の中で一番長い指であることに注目してほしい。しかしながら、5本の指をこぶしにすると、すべての指が同じ長さに見える。なぜこのことが重要なのだろうか?その時指はチームとして機能しており、こぶしにも有用性があることがわかる。

第四指:この指は人差し指、またはポインターと呼ばれる。他の4本の指すべてと共に非常によく機能する。実際には先のどの3本の指よりも、多く使われているかもしれない。しかし、他の 3 本の指がなければ、その効果は著しく制限されてしまう。私は「著しく」を強調したい。

第五指:私の考えでは、親指と呼ばれる第5指は単に重要なだけでなく、他の4本の指を正しく使うために不可欠な存在である。今すぐに、親指を使わずに手で簡単なエクササイズをやってみてほしい。他の4本の指は、親指がないとほとんど何もできないことが分かる。しかし現実には、成功するためには、すべての指が他のすべての指に依存している。成功する人は、それぞれの指を最大限に発揮させようとするものだ。

ではここで、キリストのからだの機能におけるそれぞれの指の象徴的意味を説明しよう。

小指はみことばを「聞く」ことの象徴だ。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ人への手紙1017調査によれば、人は聞いたことの5-10%ほどしか覚えていないらしい。

薬指はみことばを「読む」ことの象徴である。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」(ヨハネの黙示録13人は読んだ内容の15~25%を保持することができるようだ。

中指は、みことばを「学ぶ」ことを意味する。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」(使徒の働き1711人は学んだことの35~50%を覚えていることができるらしい。

人差し指は、みことばを「暗記する」ことだ。そうすることで、神によく仕えること、サタンとその誘惑に打ち勝つことを可能にしてくれる。「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから、私が迷いでないようにしてください。私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」(詩篇119911理論上、暗記したことは100%覚えているということになる。しかし、これは理論上の話であり、復習することによってさらに強化することが可能となる。イエスがサタンから誘惑を受けたとき、神の言葉だけを用いて対応したことに注目しよう。

親指は、手の中で最も重要な部分である。それは神のことばを「黙想する」ことを示す。「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」(ヨシュア記18この節の「行う」というキーワードに注目してほしい。「ドアの外に立つことは、ドアの中に入ることではない」という古い格言を思い出そう。

適用:あなたの手を見て、それぞれの指の象徴的意味について考えてみてほしい。自分の強みを見極めて、弱い点を補おう。そして神を探求することに邁進しよう。

成功への鍵:静かな時を持つこと (2025年1月22日投稿分)

新しい信者とは、発見されたばかりのダイヤモンドのようなものだ。ダイヤモンドが発見されたとき、それは将来なるべき姿であるダイヤモンドとは似ても似つかないものである。

人がイエスに対する信仰によって神の家族の一員となった時、その人はダイヤモンドの原石のようであり、浄化され、削られ、研磨されていく。聖書ではこの過程を、新しい信者の霊的成長と呼ぶ。

ペテロの手紙第一213では、この過程についてよく描かれている。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨て、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」

「生れたばかりの乳飲み子」という言葉に注意し誤解しないでもらいたい。これは霊的乳飲み子という意味であって肉体的な意味ではない。イエスにあって新しい人生を歩み始める人は、10歳かもしれないし、70歳かもしれないのだから。

キリストにあって新しい生活を始めるとき、新しい信者はみことばの「乳」で養われなければならない。ここでいう「乳」とは、成長にとって最も基本となる聖書の概念のことであり、それらは容易に理解し実践できるものである。生まれたばかりの乳飲み子に誰も肉を与えるようなことはしないだろう。

もしあなたがイエスを信じたばかりの人であるならば、私からいくつかお勧めしたいことがある。

  1. まず、最も重要なことは、天の父に祈り、助けを求めることだ。そうすれば神は助けてくださる。
  2. 成熟したクリスチャンを探し、個人的な助けと導きを求めよう。その人と時間を過ごし、アドバイスをもらいながら、みことばを生活に適用しよう。
  3. 毎日一人になれる時間を見つけて、聖書を読もう。疑問があれば書き留めて、あなたを喜んで助けてくれる人と分かち合おう。
  4. 主との静かな時間を定期的に持つために、あらゆる努力をしよう。

これらは、あなたが今いるところにかつていたことのある、そして神があなたにいてほしいと願っている場所にいて欲しいと願う一人の年配者からの提案であることを覚えておいてほしい。

誰が私の畑で働きたい?(2025年1月17日投稿分)

ラニー・ウルフの My house is full 」は、何年も前に私の心をとらえた詩だ。

父の家には、平安と充足。食卓にはたくさんの食べ物があり、誰も追い帰されることはない。時が経つにつれ、歌声と笑い声が響きわたり……しかし、父が悲しげに叫ぶと、歌声は静まり返る。
『私の家は人であふれているのに、畑には誰もいない。今日だれが行って、私のために働いてくれるだろう?子どもたちはみな食卓の周りにはいるけれど、誰一人畑に行って働こうとはしない。誰一人畑に行って働こうとはしない。』

食卓を離れ、窓ガラス越しに外を見る。人で満ちたこの家の向こう側には、黄金色の穀物畑が広がっている。収穫までもうすぐなのに、収穫者はどこにいるのか?家の中で、子どもたちは父が悲しそうに言うのを聞く。

『私の家は人であふれているのに、畑には誰もいない。今日だれが行って、私のために働いてくれるだろう?子どもたちはみな食卓の周りにいるけれど、誰一人畑に行って働こうとはしない。誰一人畑に行って働こうとしない。』

「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(マタイの福音書93738

あなたもそして私も、イエスが昇天される直前に弟子たちに与えた使命と同じ使命を帯びている。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き18

私たちは天の父から受けたすべてのことの証人になるように、と言われている。そしてこの使命の順序を見落としてはいけない。上記のみことばは、イエスがエルサレムで語ったものである。

今あなたが住んでいる場所が あなたにとっての「エルサレム 」だ。ユダヤやサマリアに移住するとしても、あなたはまず「エルサレム」で働くだろう。ここで話しているのは働くという活動よりも、むしろ生産性のことであって、ここには大きな違いがある。もし「エルサレム」で実を結んでいないのなら、どうしてユダヤやサマリアで実を結ぶことを期待できるだろうか?先ほどの父の家は人で満ち活気があったのに、収穫の場には誰もいなかったことに注目してほしい。

弟子たちが当時の世界に福音を伝道する使命を与えられたように、私たちにも同じ使命が与えられている。

今日の教会は、勤勉で愛情深く忠実な家族で満ち溢れている。神は、その家族の一員として、あなたに「エルサレム」でボランティアとして働くことを望んでおられるかもしれない。そうすればあなたは、ユダヤとサマリアの働きのための準備が整えられるだろう。あなたにとってのエルサレムは、近所かもしれないし、職場かもしれないし、キャンパスかもしれないし、あなたの個人的影響を及ぼす範囲のことかもしれない。あなたはただ主に向かって「ここにおります。私をお遣わしください。」という言うだけだ。

神が語りかけていると感じたならば、両親や牧師に相談に行き、導きを求めることをお勧めたい。将来あなたが、収穫畑の働き人となりますように。

あなたが神とあなたの人生に対する神の意志を求めるとき、神はあなたを祝福してくださるだろう。

LEAVE IT OR SEND IT ON AHEAD

A friend of mine had spent several years in the United States Navy during World War II. He had served his tour of duty and was waiting on an island in the Pacific for transportation home. He and many others were waiting for a ride on a government transport back to the United States.

After several days of waiting his time came. He grabbed his seabag and got in line. When his time came to board the plane, he was told that there was no room for his seabag. He could not take it with him. Everything he possessed was in that bag: clothing, souvenirs, necessities, memories, everything, but the clothes on his back.

He made a choice, he dropped his seabag, jumped aboard the plane and left for home. This is a true story, but it has significant applications to life.

We all know that one day we will die and leave everything we have right here in this world. But unlike the sailor above, who could not take it with him, we have the opportunity to send on ahead to our heavenly home.

Jesus said, ” Do not lay up for yourselves treasures on earth, where moth and rust destroy and where thieves break in and steal, but lay up for yourselves treasures in heaven, where neither moth nor rust destroy and where thieves do not break in and steal. For where your treasure is, there your heart will be also” (Matthew 6:19-21).

How do you lay up treasures in heaven? by giving back to God a portion of what he has given to you, such as time, wealth, health, relationships, and dreams. And remember the promise in Scripture about giving:

” Give, and it will be given to you. Good measure, pressed down, shaken together, running over, will be put into your lap. For with the measure you use it will be measured back to you. (Luke 6:38)

The question then is very simple, when you die are you going to leave what you have here on earth or are you going to send some of it on ahead? If you send it ahead you will have treasures in heaven.

If you have questions on how to do this, I would be honored to assist you in any way I can! You may begin by asking God to bring someone into your life to help you. Simply pray this prayer: “God I want to know you and how to send it on ahead.”

チャレンジ!挑戦状を叩きつける(Throw down the gauntlet)。(2025年1月10日投稿分)

gauntlet(ガントレット)とは、古代の戦士が手や手首に着用していた鎧の一部である。ガントレットを外し、敵の足元に投げつけるとは、戦いを挑むこと、あるいは戦いの挑戦を受け入れることを意味する。

マタイの福音書4章では、私たちの敵である悪魔が、主イエスに以下の三つのことをするようにと挑戦状を叩きつけている:(1)空腹を満たすために石をパンにすること(2)主の力を示すために奇跡を行うこと(3)父なる神と、神の人類救済計画に対する忠誠心を放棄すること。

イエスはこれらを行う力と権威を持っていただろうか?答えはイエスである。私たちが試されるように、イエスもまた試されたのだ。イエスは他のどのテストとも同様に、このテストにも合格された。しかし私たちはこれまでに何度もテストに失敗してきている。それでもイエスは私たちのことを理解し、赦し、愛してくださっているのだ。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル人への手紙415

イエスがサタンの挑戦に、どのように対抗したかに注目してほしい。主イエスは反論もせず議論もせず、ただ聖句を引用したのである。

あなたがサタンに誘惑されて、悪いと分かっていながら行動したり発言するとき、あなたはどう対応したらいいのだろうか?言い争ったり、弁解したり、言い訳をしたりしていないだろうか?これらのことは絶対にしてはいけない。サタンは欺瞞に満ちていて、私たちよりもはるかに賢いのだから。サタンと議論すれば、それこそが大問題である。

イエスは、サタンが仕掛けた罠を知っていたからこそ、この問題について議論することをしなかった。主は3つの挑戦に対して、ただ聖句を引用されただけだった。そしてサタンはただちにイエスから立ち去った(11節)。これこそが私たちが見習うべき手本である。

神の言葉は、私たちの霊的戦いにおいて敵を攻撃するための武器となる。へブル人への手紙412はこのことをよく伝えてくれている。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、間接と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」

聖句を暗記することは時間努力が必要だが、あなたが根気強くやれば、それは大きな利益をもたらすことになる。聖句暗記を成功させるためには、3つの鍵がある。それは、復習、復習、また復習だ。(Review, Review and Review.)聖句を5分から10分で暗記し、一語一句完璧に引用できる人でも、明日にはその聖句の数語しか覚えていないかもしれない。だから復習すること(3つのR)に集中しよう。

聖句を暗記するための優れたプログラムがいろいろとあるので、それを1つ選んで始めることをお勧めしたい。それからもう一つ、聖句を覚えるだけでは人生は変わらない(サタンがその例だ)。しかし暗記した聖句を適用すれば、それは可能となる。ヤコブの手紙122にはっきりと書かれている。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」

手始めに、詩篇1199節から11を暗記することから始めてみよう。

「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷いでないようにしてください。私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」

そして先ほど言った3つのR(復習、復習、また復習)を忘れないでほしい。

ぜひ聖句暗記にチャレンジしてほしい。決して後悔することはないはずだ。

A LESSON IN SPIRITUAL GRAMMAR: the TENSES

In what grammatical tense are you living for Jesus? Are you living in the past, present or future or are you active in all three?

Your answer to this question will tell me about your walk with Jesus. Every person has the opportunity to determine how to live the Christian life: in the past tense, present tense, or future tense.

If you’re living in the past tense, you are dominated by the thoughts, actions, failures, successes and decisions of the past. But with no successful present activity. The parable of the fig tree in Luke 13 addresses this issue of intent but no fruit.

If you are living in the present tense, you are working and living in the here and now. The past and future affect you yes, both good and bad, but they should not control you. Jesus wants you to forget but learn from the past, to trust him for the future, and to be available to Him today.

If you are living in the future tense, you know what you should be doing now for the Lord, but you have found ways to put it off till later. The later seldom comes.

The Bible teaches that it is not a question of past, present or future, but rather the necessity and benefit of living in all three tenses at the same time. This is done when we abide in Christ as explained in the gospel of John chapter15.

We must learn from the past, execute in the present, and with God’s help plan for the future.

If you do this, you will enjoy the fruit of John 15: fruit, more fruit, much fruit.

If you understand the meaning taught here but have no fruit in your life, simply pray this Prayer: “God please bring somewhat into my life that can teach me how to be fruit bearing and I ask this in Jesus’ name.”

諦めるのはいつだって早すぎる (2025年1月6日投稿分)

フローレンス・チャドウィックは、英仏海峡両方向を泳いで横断した最初の女性である。1952年に、彼女は再び海峡横断に挑戦した。彼女の横には、ボートに乗った彼女の母親がいた。水中で15時間泳ぎ続け、彼女は肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。ボートは濃霧の中にあった。彼女は、母親にこれ以上続けることはできないと言い、海から上がろうとした。母親は水中にとどまって続けるよう励ましたが、彼女は疲れ果てており、続けることを拒んだ。

彼女が海からあがりボートに乗り込んだ直後から、霧は消え始め、数分後には完全に晴れあがり、はっきりと見えるようになった。そして、あきれたことには1マイルも離れていないところに海岸線が見えたのだった。水から上がっていなければ、レースを完走できたかもしれないことを、彼女は即座に理解した。しかし、ボートに乗った時点でレースはすでに終わってしまっていた。

フローレンス・チャドウィックは以前にもこのように途中でやる気を失ってしまうことがあったが、これまですべてのレースを完走していた。彼女は偉大なチャンピオンであり、偉大なスイマーであり、偉大な人間だった。しかし今回は失敗してしまい、もうどうすることもできなかった。諦めるという決断をしたならば、その結果を元通りにする方法はないのである。

この素晴らしい女性の記録を読みながら、私はすぐに学ぶべき教訓を悟った: 「諦めるのはいつだって早すぎる!」ということを。

世俗の世界と同様に、クリスチャン生活においても、絶望的な状況に陥った時にはやめるか突き進むかのどちらかだ。しかし、このジレンマを解決するための第三の選択肢がある。信じられないかもしれないが、それはアメリカ海兵隊からのものだ。どの公式マニュアルにも載っていないものだが、現場ではよく実践されている。それは「再編成と戦略のため後方へ向けて行う秩序ある前進」と呼ばれるものだ。

フローレンス・チャドウィックは肉体的に追い込まれたが、クリスチャンであるあなたもいつの日か経済的に追い込まれるような状況に陥るかもしれない。これ以上続けることができずに、肉体的、精神的、経済的に疲れ果て、トンネルの先に光が見えず、ただ消えてしまいたいという誘惑に駆られてしまうかもしれない。実際のところ、その思いを行動に移してしまう人たちもいるのだ。数年前、私の親しい友人がまさにそうだった。彼は忽然と姿を消し、それっきり消息不明になってしまった。

この誘惑に負けずに、心を強く持とう。あなたは一人ではないのだから。これは、人生においてあまりにも普通のことなのだから。祈りの中で神を見上げて、次の聖句を唱えて、逃れる道を見出そう。

これは私のお気に入りの聖句である。

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント人への手紙第一1013

逃れる方法は、経済的、肉体的、精神的なカウンセリングや、牧師との面談など、様々な可能性がある。信じてほしい。解決の方法はある。主はあなたがその方法を見つけてほしいと願っておられるのだ。

そして次の二つの聖句も心に留めておこう。

「わたしは、あなたが行く道であなたを教え、あなたを諭そう。あなたに目を留め、助言を与えよう。」(詩篇328

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言356

しかしそれでも、このジレンマを自分自身で解決することを選んだのであれば、まずは鉛筆と紙を持って座り、問題となっていることを良く考えてすべて書き出そう。

二つ目に、返済できるもの、手放せるもの等に基づいて決断しよう。

そして最後に、最も重要なステップは「とにかくやる!」ことだ。リストを作り、ただ実行する!そうすれば、あなたはきっと満足して笑顔になるだろう。

覚えておこう。「諦めるのはいつだって早すぎる!」ということを。