幸せな新年(Happy New Year)それとも祝福された新年(Blessed New Year)?(2025年1月1日投稿分)

これから数週間は人々の間で「HAPPY NEW YEAR!(明けましておめでとう)」という挨拶が交わされることになる。

私からあなたへ一つ質問がある。あなたは幸せな新年(Happy New Year)を迎えるつもりだろうか、それとも祝福された新年(Blessed New Year)を迎えるつもりだろうか?

旧約聖書の預言者ハバククは、ハバクク書3:1718でこの問題を扱っている。

「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。」

ここで疑問が湧いてくるのが、この預言者は私たちもこの新しい年の中で直面するかもしれない人生における様々な困難に、どうやって対処したのかということだ。

彼はそれらの困難を、正しい場所に置いたのである。すなわち、彼が愛し、彼を愛した神を拠りどころとしたということだ。

このコインの裏側には、人生における困難や悲劇に近い出来事に対して、あなたはどう対処するかという問いかけが存在する。困難や悲劇はあなたが最後の息を引き取る瞬間まで、何らかの形でそこに存在し、あるいは存在し続けるものである。

答えは明らかだ。私たちが謳歌している良いことはすべて一過性のものであり、明日にはすべてなくなってしまうかもしれない。もしあなたが預言者に同意できずに、何かを失った時でさえ主にあって喜び、救いの神を喜ぶことができないのならば、あなたは本当の問題を抱えていることになる。なぜなら、彼が直面したのと同じ問題が、ひょっとしたらあなたのすぐ近くで待ち受けているかもしれないからだ。ハバククと同じようにあなたもそれらの問題に立ち向かい、神への信頼を新たにしようではないか。

持っている、持っていないに関係なく、すべての物は正しい場所へ、神を正しい場所に置くということを神は願われているのである。

あなたは幸せな新年を、または祝福された新年を迎えることができる。神を正しい場所に置くかどうかはあなた次第だ。もしそうでないならば、今日実行しよう。絶対に後悔することはない。

預言者ハバククは試練にあったが勝利を手にすることができた。あなたもそうなりますように。

あなたが主に祝福され、かつ幸せな新年を迎えることができますように!

A STORY OF TRUE LOVE

The boy was 5 years old. He and his twin brother and mother and father were visiting their grandfather. The two boys had a very personal and delightful relationship with him, and he loved them dearly.

The family was packing and loading a trailer to go home. The grandfather was in the front yard standing by the trailer. The boys’ father came out and said his son was in the house crying because he had to leave grandfather and go home. The son went back into the house and told the son to go talk to his grandfather. The boy got up went to his grandfather who asked why he was crying. He replied, I don’t want to leave you. I don’t want to go home. I want to stay here with you.

The boy knew about Jesus and his love for people. The grandfather then explained that Jesus lived in heaven and that he came to this earth to be with people that he loved very much. When the people learned that he was going back to heaven they started crying. Jesus explained to them that if he did not leave and go back to heaven, he could not come back to be with them. The disciples were so happy to hear that they would see him again.

The grandfather then told his grandson if you do not leave and go home you cannot come back to see me. Do you want me to come back and see me? The boy looked up, surprised and wide eyed and said, yes. Then you must go home, so you can come back. The boy thought about that and finally said, yes, if I stay here, I can’t come back. Yes. I’ll go home, but only if I can come back! He was assured that he could come back, and the boy jumped up and ran happily back into the house.

As his grandfather thought about this conversation, he remembered when the disciples learned that Jesus was going back to heaven and leaving them, they were greatly distressed. Jesus then assured them by saying yes, I am going away but if I don’t go away, I cannot come back.

Jesus said this to his disciples: ” Let not Your hearts be troubled. Believe in God; believe also in me.In my father’s house are many rooms. If it were not so, would I have told you that I go to prepare a place for you? And if I go and prepare a place for you, I will come again and will take you to myself, that where I am you may be also.” (john 14:1-3)

The disciples realized that they were not losing Jesus and that he would come back, just as the grandson knew he would see his grandfather again.

Yes, Jesus came, returned to heaven and is coming back. and that is our hope. If you have put your faith in Jesus as your Savior, understand that one day he is coming back to claim you as his own.

If you have never done this, do it now and look for his return when He will claim you as one of his children. A simple prayer ,” Jesus, I invite you to come into my heart and change my life and please bring someone into my life they can teach me.”

新しい年: 1月は振り返りと軌道修正の時 (2024年12月28日投稿分)

一年の最初の月である1月(January)は、ローマ神話に出て来る神ヤヌス(Janus)にちなんで名づけられた。ヤヌスは扉と門の神で、通常は2つの顔を持ち、1つは前を向き、もう1つは後ろを向いている

聖書は、過去から学びつつも、未来に向かって生きるべきだと教えている。

1月は振り返りの時であり、前年の評価をする時である。

例えば:

あなたはこの12カ月を賢く使い、失敗を乗り越えて、成功へと前進できたか?

他者に手を差し伸べ、愛し、恵まれない人々へ必要となるものを分かち合えたか?

自分を怒らせた人を赦したり、自分が他の人に赦しを求めることがあったか?

神を求め祈ったか?享受した恩恵に感謝したか?

私たちは過去を変えることはできないが、そこから学ぶためにあらゆる努力をすべきである。

1月はまた、前を向いて目標を立てる時でもある。

例えば:

どうすれば両親を敬うことができるか?どうすれば家族に愛を示せるか?

自分の家をもっと魅力的にするにはどうしたらいいのだろう?どうすれば隣人に手を差し伸べ、愛することができるだろうか?

どうすればもっと忠実に神を追い求めることができるか?どうしたら自分の教会にもっと関わることができるか?

もし誰かが私を怒らせたとして、その人を赦すことができるだろうか?先延ばしにしてきたことを、今年こそ決断できるだろうか?

これまでのところ順調であったとしても、この一年をさらに良い年にすることを私はお勧めしたい。過去を振り返って評価するにしても、未来に向けて計画を立てるにしても、主イエスの言葉を思い出してほしい。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイの福音書633

神を求めよう。神は必ずあなたを見つけ出し、そして祝福してくださる。

義と不義 (2024年12月27日投稿分)

聖書の中で、角は楽器として、また注意を引く道具として使われている。動物界では、角は武器として使われており、力、強さの象徴である。詩篇75篇では、著者は2つの目的を持つ2つの角について語っている。不義の角と義の角である。

不義の角は、愚か者、愚かさ、悪者どもの象徴として描かれている(詩篇75:4)。またうなじを堅くする傲慢さや横柄さ、また「私のやり方が気に入らないなら結構だ」という態度を示している。

ここで描かれている不義の角は、個人が持つ特性や能力は個人的努力による結果ではなく、むしろ賜物の行使や創造主である神によって与えられた能力であることに全く気付いていない。現代に生きるほとんどの人は、この最も基本的な真理に気付いていない。彼らは聖書にある言葉「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くし、ある者を高く上げられる。」(詩篇7567さえも拒絶する。

不義の角は、自分勝手で利己的と表現するのがぴったりだ。しかし、義の角は、サムエル記上222-3でダビデが大変うまく表現している。

「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。」

この原則は箴言25:67にもはっきりと書かれている。

「王の前で横柄にふるまってはならない。身分の高い人のいる所に立ってはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、『ここに上って来なさい』と言われるほうがよいからだ。あなたがその目でみたことを」

ここで語られている原則はシンプルだ。自分の角を吹き鳴らすなということである。もし吹き鳴らすことが必要でかつ適切だと思うのであれば、他の人に任せればいい。あなたはひたすら働き、信頼し、奉仕し続けること。結果がどうなろうと気にしないことだ。

質問:高く上げることが南からも、東からも、西からも来ないのならば、それはいったいどこから来るか?

なんという慰め!それとも、、?(2024年12月27日投稿分)

私は歌う。幸せだから。

私は歌う。自由だから。

主の目は雀の上にも注がれているのだから、

主は私のことも見守ってくださるのだ。

これは1934年に作られた歌の一節で、私たちに対する神の素晴らしい愛についての真理を語っている。一羽のスズメが地面に落ちたことにさえ気づいてくださるほどに、神の愛は慈悲深いものである。それゆえ、神はあなたのことも私のことも見ておられるのである。これは慰めだ。主は、私たちが傷ついているとき、悲しんでいるとき、誰にも気付かれないニーズを抱えているときを知っておられる。一言で言ってしまえば、天の父は私たちのことをすべてご存知であるということだ。素晴らしい真理ではないか!

そう、それは素晴らしい真理だが、そのコインの裏を返せばいささか気が重くなる。主は私たちを見ているし、他の人たちが何も知らないようなことも知っている。明るみにでれば、天の父の子として非常に恥ずかしいと思うことまでもすべてご存知ということだ。はっきり言っておくが、私がここで話しているのは、告白して赦された多くの罪のことではなく、人生におけるグレーゾーン(自分の心の中ではそうではないと分かっているのだが)であり、神と人の前で本来解決されるべきことである。聖書はこのことについてはっきりと語っている。「こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」(ヤコブの手紙417

あなたが長年抱え込んでいるグレーゾーンは何だろうか?それに向き合う決心をして、神の御力を信頼すれば、神は喜んであなたを助けてくださる。

あなたが天の父に何かを告白する時、神はすでにその問題についてご存知であること、そしてあなたがそのことを、祈りを通して語ってくれることを信じて疑わずにずっと待ち望んでおられることを忘れないでいてほしい。

行動力のある弟子となるためにすべきことのTo doリストを作り、それを実行しながらチェックしていくことをお勧めしたい。

そう、確信に満ちた従順さでイエスとともに歩むとき、私たちはイエスにあって幸せであり自由なのだ。

主に従うあなたに祝福がありますように。

心配事への解決策(2024年12月27日投稿分)

定義によれば、懸念/気にかける(concern)と心配(worry)にはわずかな違いがある。

ひとたびconcernが手に負えなくなれば、それはworryとなる。両者には天と地ほどの差がある。

定義上、懸念/気にかける(concern)とは、問題を発見して当事者に答えを探させることから、ある意味有用なものである。その一方で、心配(worry)は問題の存在に気付きながら解決策を見出すことができない。クリスチャンであろうとなかろうと、すべての人はこの二つを見分けなければならない。そしてもし心配がその人を支配しているのならば、その人は問題を抱えていることになる。

詩篇37篇の作者は、どうやって心配に対処すべきか教えてくれている。37篇で心配を意味する単語は「fret」であり(詩篇37:1,7,8)、これは不満を持つ、腐食を引き起こす、何かをかじる、という意味である。(*注日本語聖書では、口語訳=心を悩ます/新改訳2017=腹を立てる)

作者は言う。この世には(1)してはならないことがあり、(2)しなければならないことがあると。

第一に、私たちは悪いことをする人に懸念を抱いたり、心配したりしてはいけない。そして、彼らが成功し、繁栄しているとき、私たちは彼らを妬んではいけない。それは神の仕事であり、私たちの仕事ではない。神はご自分のやるべきことをしっかりとやってくださる。「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」口語訳聖書(詩篇3712

第二に、想定外の問題に直面したとき、主に信頼することである。「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」口語訳聖書(詩篇3734

クリスチャンは、人生におけるネガティブな出来事についても常に気にかけるべきではあるが、それらについて心配するのであれば、それはすなわち祈りが十分に捧げられていないことを示している。

CHOOSING A YOKE FELLOW

Realize it or not every person seeks perfection in every area of life. We may never find perfection in all those things we want, but we get as close as we can. If I buy a new car, I want it to be perfect. If I can’t afford a new one, I want one nearly perfect. In marriage you will never find the perfect yoke fellow. But be encouraged God is able to bring into your life someone who seems in your eyes to be nearly perfect in every way!

There are two decisions that nearly every man or woman will face in life: with whom do I spend eternity and with whom do I spend time. More precisely how do you choose a Christian yoke fellow for eternity and time.

When you decide to put your trust in Jesus as your personal Savior the issue of eternity is settled. You have found the perfect yoke fellow. When you choose the one to marry the issue of time is settled. Our focus here is to provide guidelines for marriage and the true yoke fellow. What do you look for in a life mate.

Question one: is this person a Christian? If the answer is no, you should look further. The Bible is very clear “ Do not be unequally yoked with unbelievers. For what partnership has righteousness with lawlessness …..” (2nd Corinthians 6:14) If the answer to question one Is yes then go to question two.

Question two: would you be interested in studying the Bible with me? If the answer is yes, the two of you should read and study the Bible together. If the answer is no, perhaps you should look further for your true yoke fellow.

Reader, do you want a true yoke fellow? Then simply pray this prayer: ” God please bring into my life that individual that you have planned for me that together we may serve You;”

新年がやってくる。あなたは準備ができていますか?(2024年12月25日投稿分)

新しい1年がやってくる。成功と繁栄―そして失敗や苦しみーという新たな一年だ。

新しい年を迎えるにあたって、私たちは成功も失敗も、繁栄も苦しみもあることを理解しなければならない。

成功や繁栄は、時として失敗や苦しみと同じように人を打ちのめすことがある。お金や名声や成功は、永続的な幸福をもたらすものではない。これらは一瞬にして消えてしまうかもしれない。

では、良いことも悪いことも経験することになるとわかっている私たちは、新しい年をどのように迎えるべきだろうか?

まず、神があなたの人生と計画の中で重要な位置を占めていることを確信することだ。

が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)

神があなたの人生に介入し働いてくださるのは、祈りによってあなたの許可を得た時だけであることを覚えておこう。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って、、、、、」(ヨハネの黙示録320

第二に、これを実行したならば、神の子としてあなたに対する神の計らいを信頼することである。次の節での「すべてのこと」とは、すなわち、良いことも悪いことも、楽しいこともそうでないことも意味している。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙828

最後に、良いことであれ悪いことであれ、過去に捕らわれることなく、あなたの未来のために神を信じることだ。

「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ人への手紙31314

過去に経験した成功や繁栄が何であれ、神に感謝すること、そしてそれに捕らわれずにただ前進すること。そして過去にどんな失敗や苦しみを経験していたとしても、そこから学び、手放し、前進することだ。

神があなたを愛し、あなたの人生に素晴らしい計画を持っておられることを忘れてはならない。ただし、それはあなたの許可があった場合に限られる。

今頭を垂れてこういうべきだ。「主よ、私の人生をより良いものに変えてくださることを許可します。そうしてくださることに感謝します。」

そしてあなたの人生に良いことが起こっても、決して驚かないこと。神に感謝して、この祝福をまわりにいる人々にも分かちあおう。そうすれば彼らも祝福される。とにかく続けていこう。

クリスチャン生活に必要不可欠なこと:証しすること(2024年12月25日投稿)

すべての信者に対する神の御心は、マタイによる福音書28章18節から20節に、イエスによって明確に述べられている。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』」(マタイの福音書281820

まず18節でイエスが宣言したことに注目しよう。イエスには、天においても地においても力が与えられており、父から与えられたこの権威によって、以下のことを弟子たちを指導する資格が与えられている。

弟子たちは教えに出て行き、あらゆる国の人々にバプテスマを授け(19節)、イエスが彼らに教えたことを教える。そして人々が従順に従ってイエスが求めたことを実行する時、イエスは彼らと共にいてくださるという約束に注目しよう。

マルコによる福音書161520にもまた、イエスが他の人々に伝えるよう指示していたことが書かれている。「、、、全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。、、、、」

使徒の働きの著者も、クリスチャン生活におけるこの本質的な真理を記録している。信者は皆、良い知らせを他の人々に伝える責任がある(使徒の働き1611)。

この真理を最後に示すのが、マルコによる福音書519である。この箇所で、イエスは悪霊に憑りつかれた男を癒した。彼はイエスと一緒に行きたいと願い出たのだが、イエスは「いいえ、家に帰り、神があなたにしてくださったことを他の人に話しなさい」と言われた。これこそが、神が私たちに望まれていることだ。あなたがすでに実行しているのであれば、その良い仕事を続けよう。神はあなたの従順さを祝福してくださるだろう。

イエスを信じる者は皆、種を蒔く人か刈り取る人のどちらかになるべきだ。あなたはどちらだろう?私の願いは、あなたがその両方になることだ。

THREE DIMENSIONS OF MAN

Every person has three dimensions: (1) as others see you, (2) as you see you and (3) as God sees you. An understanding of these three dimensions is essential to the growth and success of the follower of Jesus.

How do other people see you? They see you as attractive, well-groomed, pleasant, a devoted believer, and pleasant to be around. They see you as one who exhibits the fruit of Galatians 5:22,23 ” But the fruit of the Spirit is love, Joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, gentleness, self-control …..” Your response is positive; you are pleased with how people see you.

How do you see you? You see a person who quite often does not love others, who has happiness with very little joy, who struggles to find peace of heart, who lacks patience with certain people and who lacks self-control in many areas. I could list more, but you understand where I’m going.

This contradiction is expressed by the apostle Paul in Romans 7:15,18. ” For I do not understand my own actions. For I do not do what I want, but I do the very thing I hate. For I have the desire to do what it right but not the ability to carry it out.”

Finally, how does God see you? He sees you as one he loves very much. He loved you so much that he came into this world as a man, to live as a man, and to die as a man. He went into the pawn shop of life and purchased your ticket with his own blood. You now belong to Him. This truth is presented throughout the entire Bible and is summarized In First Corinthians 1:30,31: ” And because of him you are in Christ Jesus, who became to us wisdom from God, righteousness and sanctification and redemption, so that, as it is written, Let the one who boasts, boast in the Lord.”

Here are your instructions: (1) graciously accept how others see you (2) vigorously reject or correct the old you and (3) faithfully live as Jesus empowers you. And remember we are all in the same boat!

Reader if you are not in the boat described above right now pray this prayer: ” Jesus please come into my life that when you see me you see one forgiven of all sin”